[或る用の疎]<18>第3章『辷』(4)

さて。

Aとiは(言わば)四肢の絡まり合った状態で地中に在る。

動物の形をしていないAとiであるから、

皆さんにこの2つの「言わば四肢」を想像してもらうのは非常に難しいだろうが。

 

また、

このAとiのボディーから伸びたパーツの枝葉同士が密接に絡まり合っていて、2つ同士の位置が近過ぎだという理由からではなく、

われわれ人間ごときであっても簡単にふんだんに変化をさせることの出来る容姿なんぞに対して向けられる知覚は元来どちらも持たないし、

地中の空気以外の数多の物質でボディーを包まれているがための接触情報過多が、データ保存領域の一部でキャパオーバーを起こし、どちらの触覚機能も働けていない。

 

だがそんな状況下においてでも、

経過してきた長い時間で蓄積の進むがままとなっている知覚情報は、

察知感覚を深め広げ鋭敏にしていく作用として確かに機能をし、

ついには空気よりも静かな息吹を両者で感じ合うこととなった。

 

それはどちらともなく、いや、どちらかが感知した時に、もう片方も感知したはずだ。

なぜならば、この2つには、錆の様に付着した人間臭さがあるからだ。

 

いけない!「人間臭さ」を用いてAとiの2つの出会いを皆さんへお見せするのでは

この2059年以降の時代の世界を描くことからは程遠くなりそうです。

 

知識は社会(=結果)であり、感覚こそが未来であるからです。

 

ですがついつい、「人間臭さ」という「エラーを偽善で固め覆った言葉」を用いて描く術を、私は今においては消したくても消せないのです。

 

実は、私はつい先程に、人間として壊してはならない場所にヒビが入ってしまう出来事に見舞われていた。

それで、これを書いている今、私は将来へ向けてしかたがなくなってしまっている。

 

嗚呼、もしかしたら、私はいつも心の中で仕方が無さ過ぎるから書いているのかもしれないね。

 

だって、私だけに限られたことでは無く、想像が出来ない未来(=感覚)に対しては、

誰もが誰宛てだとしても、突き出してあげられる答えなど発しえない。

 

だから、皆さんにしても、こんな私にしても、

そしてこの2つにおいてでも、具合加減はそれぞれで、

きっと同じ仕方の無さを常に携えているのではありませんか。

 

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(続く)<19>『辷』(5)


・更新履歴:初稿<2018/06/25>