ヨシハチは変声期<9>

「切取町に新しく塾が出来るらしいよ。」

この情報はパピルニーの囚人達からだけではなく外の世界の大人達伝手にも届いて来た。

「塾」と言えば、もっぱら我々パピルニーの囚人達にとってはとっても貴重な居場所。

塾に居る間の時の俺達は監獄と娑婆との狭間の位置に立たせてもらっている仮釈放者に成れるのである。

また、俺達は、徳を積み上げる為の特別で正当な修行を積むことから悟りを開かんとする位の低い僧でもある訳だ。

とは言うものの俺の父母の話題にずっと上ったことのなかったのが、このありふれているはずな「塾」という単語であった。
だから俺は今まで塾に通ったことも訪れたことすらも勿論ないのだ。
そんな俺にとって、塾は空想上のものであり「期待の地」となっていて、殊更に神殿の如く煌びやかで厳かな存在感を基調とした救済の象徴なのである。

そう言えば、父母と一緒にいる時の俺は家族3人で何の話をしてきだろうか?実は其の殆どを俺の脳は覚えられていない。

パピルニーでの会話はというと、夏の砂浜で灼熱の太陽光を浴びながら遊ぶ子供達が不規則に跳ね回る様子に似ているのだが、その場の雰囲気の表面から沈み落ちない言葉を選んでは、それらを一個一個浮かべて漂わせていくのが父母との間のそれだ。
だからと言って父母との会話が恐る恐る慎重にしなければならない代物となっているのではないが、表面張力程度の緊張感の存在が固い基礎になって建っている対話の塔な気がする。これは父母も同じ感覚なのだろうか?

議事を進めるべき問題意識は持ち込まず、原理原則という世の核心を目指す必要は初めから無く、アメンボウの話もしない。

それでも父は時折で玉虫やゲンゴロウ、オニヤンマなどの話を自分の幼少期の思い出話に織り交ぜて楽しそうにしてくれたのだが、俺の周りでは残念ながら玉虫・ゲンゴロウ・オニヤンマ達は幻想や画面の中で見るしか出来ないだけの存在となってしまっている。
そして、採集癖がある訳ではないし、俺にとって虫はおもちゃでもない。

母は父とはまた違っている。
まず第1に言葉の量が父よりも母の方が格段に多い。
父は酒や自分に酔った時にだけ口数が急激に増えるのだが、これは垂れ流されている動画と同じ扱いしかし得ない類いの、非現実的な手で触れてはいけない挙動だ。

ただ、母が口にする話も、現実の場のという表層の奥には、幾重にも意識の層が折り重なっている、と俺に感じさせてくる心象があって、父による酔いからの戯言との優劣については差をつけ難いと俺は感じている。
そして感情、印象、情緒の増縮、脈絡の無さが貫かれていて、興味や衝動で取捨選択される言葉の連なりでなく毛穴という毛穴から迸る臭い物を拭わずコロコロと表情を変えては言葉を発する母も、俺にとっては赤の他人と等しい生物だと捉え直してから向き合うべき相手となる。

いずれにしろ俺は父母との対話の内容をよくは覚えておらず、よっぽどそんな彼らの口からは聞く機会のない単語の方が記憶域に鎮座しがちであるが故に覚えてしまっていたりもする。
「新商品」「BBQ」「セックス」「戦争」「1DAYパス」などなど、「塾」の他にも我が家では聞かれない単語が幾つもあることをパピルニーで知ることとなった。
こういった君谷家にとっての外来単語達は父母ら自身から欠け落ちた破片とでも言えるのだろうか?パピルニーで聞き増えていく単語の行く先が知れずに怖く、忘れても良いものか保管しておくべきなのかを判断しかねて迷いに陥る現象も怖くある。

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【第10話へ続く】

ヨシハチは変声期<8>

そんなのろま先輩の後輩にあたる手練れの者から愚痴を聞かされている方の人達は何を考えて聞いてきたのだろうか。
愚痴だけでなく愛情表現や親切だって排泄行為と捉えた方がしっくりくるし、すっきりもするのに。
排泄行為を何度となく重ねるのろま先輩の後輩にあたる手練れの者にとって、異性は特定の誰かに、同性は皆敵に見えて仕方がなくなっているのだろう。
ならば、手練れの内に秘めた異性の話も、パピルニーに小糠雨を降らす曇天の正午を思い起こさせる代物でしかないのだろうか。

「エレベーターに付いてる鏡って何のため鏡なのか知ってる?」

「え?何なの?知らないわ。」

「鏡がついてるエレベーターは車椅子の方のためにあるの。車椅子が安全にバックできるためにあるのよ。」

保育士2人組の話の雨雲は、思いがけず上がりそうな空模様へと流れ出した。

「たいへんに美味しいセルフの店」を出て駐車場へと向かうエレベーターの中で、「この鏡はエレベーターの外へ出たいとは思わないのかな?」と思いながら俺は鏡に触れる。

「このエレベーターの中が無人の状態で扉を閉じた時、閉店後に電源を落とされた状態でいる時、君は何を思っているの?」

指の跡が付かない様にセーターの袖でくるんだ手で俺は縦長の鏡の縁を上から下に一度撫でた。

更に、その翌日の朝。

「マキのお父さん、昨日死んじゃったらしいの。」

俺が教室へ入った途端にユミが自ら近づいて来て言う。
それからも次々と教室へ入ってくる者達の前に立ちはだかっては一言一句違わず、マキの父親との死別を繰り返し漏れなく告げていた。
マキは同じクラスではないから、ユミは文字通りクラスの全員に知らせたのだろう。

トシキはマキに対してどの様に振舞うのだろうか。

マキのお父さんが死んでも、トシキはマキが好きなのだろうか。

マキのお父さんが死んでも、マキは周りの同性達に妬まれ続けるのか、それとも、違った局面へと事態が変異し始めるのか。

俺には判らない。

ユミには、マキの不幸が落ち着いてからで構わないから、今度は「ナメクジって痛いこととか絶対してこないよね。」って話もクラス全員にお知らせして欲しい。

用務員がホースで撒いた水でパピルニーの中庭の池に架かった小さな虹を見ながら俺はそう願った。

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【第9話へつづく】

ヨシハチは変声期<7>

その日の夜。

生姜風味で熱々の冬瓜スープをスプーンでゆっくりと口に運び、ブロッコリーや人参、蕪、グリーンアスパラ、南瓜などのボイル野菜を中心に、油っこくは無い料理ばかりを選んで、「たいへんに美味しいセルフの店」と看板で銘打ってあるビュッフェの専門店で家族の食事をしていた時のこと。
俺は揚げ物やソテーといった油物が苦手だから、油物全般の味が嫌いではないんだけれど、飲み込んだ後から途端に気持ち悪くなってばかりだから油ものは苦手だ。

「グループリーダーがマジぽんこつで。」

「まだ若い人なの?」

「そんなもう若くはない先輩の人。」

「キャリアはそこそこ長いんだね。もしかしてその先輩って、保護者とのトラブルとかもあったりするやつ?」

「う~ん。それはたまにだけどね。無いわけじゃない。でもやっぱりたまにはあるのよ。」

「そっかあ。でもさあ、トラブルはどこにでもあるし、トラブルの内容でもヤバさ違うじゃない。」

「まあ確かに。」

「アレルギーへのケアとフォローが冷や冷やなんだよね、特に。」

「え?アレルギー案件はやばくない?!」

「そう、やばいの。おやつの後にはする手洗いを、給食の後にはしなかったりとかあるのよ。」

「やっば。おやつも給食も同じでしょうよ。」

「後、とにかく仕切りがのろくて、私達がどうしたら良いのか困ることばっかりで。その先輩の仕切りが悪いのは、子供達みんなに申し訳無いわあ。」

「ああ、それは本当に大変だよねえ。」

隣の席から20代前半くらいの保育士らしき2人組の女性客達の話を俺は聞いていた。

同席している父母らは、普段から長年のちいさな不満の蓄積をキッカケに小競り合いの喧嘩をする位で、他は平穏であるのか、お互いへの関心はもう薄く、俺を経由しない会話はほとんど無いので、円満な家庭を表す為には俺が重要な立場にいる。だけど俺には俺の都合もある。

のろまだとして揶揄される先輩の話をしている彼女達がパピルニーの囚人であった頃も、俺達と同じ構造のパピルニーの中での生活を送っていたのだろうか。
もし同じであったのならば、やはりパピルニーを出所したところで、外の世界でも人の頭の中は抑圧の戦場の最前線か。

意外と吐き出してるから同じことを好んで繰り返しは言わない。
それが人ってものなのを俺は知っている。

なのにこののろまな先輩の後輩の人は、のろま先輩への愚痴を何度も幾人にもしてきた様な流暢な口ぶりだ。
のろま先輩についてのあらゆる類の質問を幾度も受けてきた手練れの者だ。

 

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ヨシハチは変声期<6>

この一連の小騒ぎの傍観者では留まれない俺の心の中に「出来ればその逆剥けにナメクジを這わしてあげたい。」との思いが立った。
カタツムリだと殻を摘んで投げつけられそうだからナメクジだ。

「またそんな気持ちの悪いことしたがるんだから!」

タカシがこの俺の考えを聞いたなら、きっとそんな風に言って、実際にはナメクジを持ち歩いているはずもない俺を制して止めようとしたくて、続けてこう言うのかもしれない。

「カタツムリだってトシキ達は嫌がるよ!」

そこまで想像した俺は、「確かにそうだ。」と感じ、それと同時に悲しい気持ちが溢れる。

もっと前には俺達は皆、塗り絵でカタツムリとも楽しく遊んだはずなのに。
どうして今ではカタツムリですらも汚い者の様に扱っていて、前までの様に可愛がらなくなったのだろうか。
理由があって可愛がれなくなったのだろうか。
いつかナメクジにしつこく悪口でも言われたのだろうか。

俺達は爪や髪や身長が少しずつ伸びていく変化くらいしか無いと思っていたのに。

俺だけは囚人らしくパピルニーに来てからもずっと坊主頭だ。
バリカンで刈られた次の日には決まってジョリジョリ頭を触られる。
触るもの達からすると、さわり心地が気持ち良いのらしい。
だが男達はほとんど触りに来ない。

彼等は俺を妬んでいるのだろうか?

刈られた日から2、3ヶ月も経って伸びてくると、「今日は帰ってからボーズに切って来るんでしょ?」とも言われる。
これは女達が言うことであって男達からほとんど言われない。

この度に俺としては切っているのではなく刈っている感覚だから、いつも切るという言葉にピンとこないままで曖昧な声を出す反応を返すしかできない。
そして生憎なことに土曜日の午後にしか俺は刈らないから、彼女達は刈りたての俺の坊主刈りをジョリジョリすることなど出来やしない。

かたや男達が言うのは、「ハゲ」。
そう言ってからかってくる。

彼等は俺を妬んでいるのだろう。

そして、トシキはモテるから、実はマキは周りの同性達に妬まれているのだろう。

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ヨシハチは変声期<5>

こうして現実と理想の間で蠢く問題との闘いに集中して取り組みたい最中にあっても、虚像のごとき「謝意という感情」が最も俺を突き動かしたのは、俺が真に罪人であって、このパピルニーがお似合いで、このまま収監されているべきであることを立証するには足りている。

「そうだ。」

涙などというものは、どこかへ辿り着くでも、何かに昇華していくでもなく、この世に確かに「偶然」が存在することを立証する目的の為に活用するべきである。
差し当たって今の俺は、タカシへの止めど無き空虚な罪悪感の圧に息の根を押し込まれている内に、俺は呼吸をして生存を保つためにも泣きに泣いて「ごめん」を言い続ける様に成れている。

「はあ。」

俺は溜息を使って立ち上がり、足元の辺りを見回す。
俺に足りないものはまた見つからなかったが、忘れ物は無さそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

「親指にどっちも逆剥けっていうのができてさあ。」

「サカムケ?」

両手の親指をマキの目の前に差し出してトシキが言う。
その様は誇らしそうだけれど、甘えたくてどうしようもない気持ちの滲み出た身振りに俺には見えた。

トシキが突き出した逆剥けの指をマキが両手の人差し指でツンッツンッと触れるとトシキは「痛っい~」と言い、次にケンタが触ろうとすると、「もうやめろよ!」と両手とも胸元に仕舞って怒り出す。

トシキはマキが好きなのだろう。
ケンタが嫌なのではなく。

トシキはマキの方を向き直して「だから今日は教室掃除なんかしたくないなあ。」とも言う。
そのトシキの両手が胸元で組まれているものだから、まるでマキの躰を借りた神にお願いや懺悔をしている信者の姿にトシキはなっている。
そしてその表情はいつの間にか甘えた風情に戻っている。

「だめだよ!」

マキは即座にトシキに怒ることで諭すのだった。

「えー。」

だがマキに怒られるトシキは嬉しそうだ。

やはりトシキはマキが好きなのだろう。

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【第六話へ続く⇒】

ヨシハチは変声期<4>

「そんなことであるものか。」

後ろを振り向き、換気のために開け放たれたままになっている窓の先に広がった黄金色の夕陽を目掛け、俺はタイル貼りの薄く湿った床の上を駆け抜ける。

もう今の俺にとっては此のサッシを乗り越えるのが難しいはずはない。

単なる窓枠でしかない物体が狭まっていくという幻覚の代物であるパピルニー特有の此の結界を、全身で突き破り着地した所が胎内であって欲しい。

胎内に着地してから思い返してみれば、パピルニーの中の全てがもう既に完結済であったとの証明も出来る。

そうなれば母の子宮の伸縮に揺られているだけで誰にも邪魔されず、悲しまれもせず、死刑執行の日を迎え入れる前に、追われない仕方での「脱パピルニー」も叶うんだ。

だから俺は、着地が成功する夢想と黄金色の光に包まれて守られながらタイル貼りの薄く湿ったトイレの床の上を窓へ向けて駆け続ける。

だがその内に、背中のランドセルと左肩のトートバッグが、女郎蜘蛛から噴射された鎖に変異し、俺の全身へと恐怖を張り巡らせ、前後左右上下の判別を麻痺させてくる。

女郎蜘蛛から逃げるという決意では、走る動きをこのまま続けられても、全方位360度の位置関係と重力すらも張り裂けては飛び散り、俺はまんまと鎖の網に四肢をからみとられてしまい、パピルニー側の思う壺にはまる。

走り続けた末に、「俺には何かが足りないんだ。」と悔いながらも、両手を前に突き出して窓枠のレールに両足で乗り上げ、兎跳びの要領で両膝を伸ばして弾いた体が飛び出した時にも、まだ俺は変化した訳では無くて、何かが足りないままだった。

窓の外はやっぱり広くて、涼やかな向かい風が小さな小さな幾千もの紙飛行機群の様に俺そのものを摩りながら通り過ぎて行く。それと同時に背中のランドセルと左肩のトートバッグは女郎蜘蛛の鎖の変異が解け、次には其の重量が、宙に浮いた俺の上半身を時計回りに回転させた。

もちろん、着地なんて上手く出来たはずがない。
ランドセルはことの外に大きく潰れる音を立てて俺の左の頬をぶった。

トートバッグは手が届く距離にあってしんとしている。

「俺はまず何からするのが良いのだろう。」そう思いながら、今は俺もしんとしてしまう。

まずは、「きみたによしはち。」と、自分で自分の名前を口から発してみたところ、ランドセルがぶってきた衝撃で下唇が切れてしまっていて、イッ!とした痛みが顔面に走ったが、不思議と俺自身と俺が身につけている物達とが一体化している様に感じる。
その感じは、毛布に包まれている心地良さと同じで、俺はまだ身動きをしたくない。

「たかし。ごめんね、たかし。」

タカシはやはり優しい。

こんな俺なのに、いつも優しく話し掛けてくれる。

こんな俺はいつも口下手で、パピルニーに怯えていて、虫が大好きで、タカシのこともきっと好きなのに。

なのに、優しいタカシにまで苛ついた素振りをしたりするのも、実はパピルニーに囚われているばかりの自分を許したくはないから。

更には、同じ環境下の同類な人間のはずなのに、異世界から俺の目の前に度々現れる別の生命体なたかしが羨ましくもあり、分かり合えなくて悲しくもあり、俺は寂しくて孤独で。

それで、俺はたかしに謝りたくなるんだ。

だが謝りの言葉よりも先んじて渾々と湧き出していくのが、涙。涙は俺を下唇の裂けた箇所の表面を生暖かく覆ってきて濡らしては流れ、見る間にマントルのごとく赫く溜まった先の左の耳たぶが痒くなる。

そこを右手手の甲で拭おうとするが、その勢いで地面を殴ってしまった。

「ごめん。ごめん。ごめん。ごめんね、ごめん。」

今ここで謝罪を何層にも高く積み上げていったところでタカシには届きやしない。

ましてや俺だけに聞こえる言葉なんて。

ごめん以外にも一切が不要なはずなのに、真の愚行を繰り返すことの容易さたるや、極めて始末が悪い。

とは言え結局、俺はパピルニーの外ともこういう真の愚行では繋がっているのだろう。

だが、その繋がりは「脱パピルニー」への道筋とは繋がっていない気もするし。

【⇐第三話へ戻る】

【第五話へ続く⇒】

ヨシハチは変声期<3>

結局、俺の口から出てきたのは、「ババロア。」の一言。

「給食の?」

「ババロアはゼリーじゃないから、透明じゃくて。」

「プリンに似ているやつだよね?」

「うん。でもプリンとは違うんだよね。」

「じゃあカブトやクワガタは食べないのかな?」

「食べないね。」

俺は不確かで嘘を付く。

「カブト用のゼリーって甘くないもん。」

「マジ?よしはち食べたことあるの?」

「いや、無い。」

「ウソ?よしはちは食べてそう。」

今度は本当を言った。

たかしは笑っていて、気づけば俺も声を出して笑っている。

パピルニーは俺たちの声のキーの様に雨の日でも無闇に明るい。
だから俺達の頭の中は落ち着かない。
そして放課後になると俺はいつだって1人になって日陰や草むらに入り込んでは虫を探し、その日に出会った虫達とパピルニーの中のパピルニーっぽくない居場所を作っては、空腹で頭が一杯になるまでの時間を無心で食んでおかなければならない。

でも、今日はたかしも一緒に居てくれたから、明日が昨日よりは楽しみに思えてきた。

なので今日は、地面に掘った浅い穴にハサミムシを入れてから、その上に5枚くらい軽く落ち葉を被せ、俺はパピルニーを後にするのだ。

さっき、たかしとはトイレに入るフリをして別れ、今の俺はトイレで手洗いだけをしている。

左肩に掛けたトートバッグからガーゼのハンカチを取り出して洗い終わった手を拭き、廊下に出て俺は立ち尽くす。

なぜなら俺の足元には、近代的な製造工場の床の様に清潔じみてはいるものの長年の間に擦れて刻まれた傷や窪み、クツのソールが舐め付けた黒いブレーキ痕、綺麗とはおよそ懸け離れた清掃具が上塗りしていく汚れ。

「ゴキブリよりも劣悪な環境にいる俺達は、よもや何かに例えられる価値すらも無い。」

コロコロ

コロロ

コロロ

コロコロ

コロロ

その姿を見せずに歌うコオロギのおぼろげな心の叫びは、俺がわざわざ目を瞑らなくとも、この不潔で粘着質な床でクツを捉え残したまま、素足で宙に浮かせてくれる。
けど浮遊するこの体の行先に悩んだ時点で俺の空の旅は終わっているのだ。

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【第四話へ続く⇒】

ヨシハチは変声期<2>

これまでに自らパピルニーを出ようとした者達は死ぬほどの数でいはするが、ここは無数の世界観と世界観とが折り合い分かち合いしながら無限に広がってゆく未来を期待されている場所。だから、自ら逃げ出す様になんてして離れることの出来た者はいないだろう。
時が来てお迎えの役目を負った担当者から送り出されるパターンしか、パピルニーから離れられる術を俺は知らない。

当たり前だが、パピルニーのあるエリアは海に接している。
山もあって森や川もある。
だが他に具体的なパピルニーについての特徴は無い。
普通だ。

聖徳太子は、和を以て尊しとなす、と言ったと教わったが、そんな言葉すら誤解に塗れている世界という点などがパピルニーも同じだから普通なんだ。

「パピルニー。」

たかしが俺の前に立ち、俺の手元を見下ろしながら笑っている。

「よしはちって、それ言うのが好き過ぎだろう。」

「好きも嫌いも無いの。」

「好きでも嫌いでも無いなら何なの?」

「習慣かな。」

俺は自分の手元から目を離さない。

「パピルニーって呼んでないと、この世界に染まって、それから自分が透明になっちゃいそうなんだ。」

「染まるのに透明なんだ。」

「染まるのに透明になるのは確かに変なんだけど。このハサミムシの頭や腹の黒みたいな濃さの色で生きていたいんだ。」

「気持ちワル。」

「だったら見ないで。俺の大事なハサミムシを悪く言うんだったら。ハサミムシ、見ないで。」

だが、たかしもオレと一緒にしゃがみこんでハサミムシに息を吹きかけてはハサミムシのリアクションを窺いながら

「お尻に生えてるハサミって攻撃力高いの?」と訊ねてきた。

「さあね。闘ってみたら?」

「うーん。」

たかしは、和式便所に居るみたいな格好で無表情なまま、俺とは別の地面を見つめている。

無表情で不恰好な人間を見つけると、俺はからかいたくなるし、心の中では既に嘲笑っている。

「闘わないの?」

「オレはただ、よしはちのタタカウとかいう言い方が気持ち悪いんだよ。よしはちと話してると、いつもタタカウとかの話になっていっちゃうのが恐くて。それで嫌な気持ちになっちゃう時もたまにあるんだよ?」

たかしはいつも俺に優し過ぎて、今も俺は体のどこかを一瞬だけ細く抓られた時の痛みを錯覚として覚える。
そして、すぐにたかしに何か言葉を返さないと、たかしが俺を透明にしてしまいそうで、それで不安な気持ちになってしまうが、俺はいつも通りに何も言い返せないまま、たかしと目を合わすことすらも出来ていない。
それどころか「俺が恐いって言いたいの?」という言葉しか思い浮かばないんだ。
だけど意識的にそんな言葉で返さないのは、たかしに嫌われたくないからだ。

 

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ヨシハチは変声期<1>

下らなさを垂れ流すのが止まらない、そんな音の連なりがロックミュージックなのであるらしい。

きっと否定の凶器で攻められながら受ける傷は想像上のもので、生傷はどこにも出来ていないのに、どうしてロックミュージシャンはあんなに憐れみの風貌で人前に現れるのだろうか。

それから。いつまでも苦しい表情で痛々しさを擦り付け合ったりするのもロックミュージシャンの本性なのだろうか?

「知らねーよ。」

ある意味では俺もロッカーなのかもしれないな。

いや、どちらかと言うと俺はPUNKISHなほうかな。

例えどちらだとしても、何故か俺は、自らの心中や周りの人間達との話をやたらと披露するミュージシャン達は嫌いだ。

しかも其奴ら一味が登場する時には須く、聞き手として対峙しているだけなはずのインタビュアーは敢えて其奴らをアーティストって連呼したがるもので。
其奴らがアーティストと呼ばれているのを聞かされている、もしくは読まされている側のこっちとしては最悪の気分になるばかりだよな、カモン!

そもそもアーティストの基準はどこでどいつが決めているのだ?アートなのか塵なのかの違いは作品のどこに仕込まれているんだ?

「分からん。」

俺は勉強がまだまだ足りないのか。
勉強してきたから俺は分からなくなってきたのか。
そういった理解出来ない事から湧き出す不思議は無尽蔵だが、その不思議さが気になって気になって仕方の無い俺ではない。

とりあえず俺にとって世界は不気味で、いつまでたっても知らない事ばかりなんだが、そんな俺はどうしたら良いの?

真実の99.99999…%を取りこぼしたまま生きていくのが正義だと思い始めてもいるんだけどね。
だって、下らなさが詰まったアートで満ち溢れた世界に存在する悪なんて、ゲームの中の敵と同じだろ?
その根を手繰った末に取り出せるのは人間そのものなんだろ?

「ああ。」

俺は君谷義羽馳(きみたによしはち)。

陸の孤島にあるパピルニーに収監されてから10年が経つ。

パピルニーには極悪でどう更生しようも無いとされた罪人が収容されており、死ぬまでここに居るのか、死ぬまでの途中で引っ張り出されて死刑執行を受けるかの2パターンのみだ。

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綺麗じゃない花もあるのよ(#18)

〈ふたり〉

ウッウウウウウッーウッウウウウウッーウッウウウウウッーウッウウウウウッー。

さっきの軽パトカーとは違うパトカーが強いサイレンを鳴らしながらここの狭い通りを猛烈に駆けた轟音で我に返り、ずっと黙ったままだった進一を見遣る正子とわっさん。

「まあ進ちゃんも大丈夫だから頑張んなよ!才能はあるよ、勇気の!」

「勇気よりも文才欲しいっす」

「勇気も文才もどっちも欲しがれよ進ちゃん!」

「そうよ。今からでも書きなよ!しん君が書いたの読みたい。」

「まだ読んでないとね?」

「ええ。」

「いやだって小説なんて嫌いだって。」

「嫌いだなんて言ってないわよ。」

「いやだって好きじゃないんだろ?」

「好きとか嫌いとか全然言ってないよ!」

「好きじゃなきゃ読んでも楽しくないだろ」

「じゃあ好きよ!」

「はあ?じゃあって言われても。だったら小説のどこが好きかよ?」

「どこがって。そりゃあ。」

「おふたりさん。好きの理由なんていういかがわしいことなんか考えんなよー笑」

「いかがわしい、とか。」

「いかがわしくても、理由が欲しい」

「もし、な。もし、だよ。」

「ええ。」

「はあ。」

「自分のことを愛してもらえないのは自業自得で。だからこそ何とかして、いつかは愛されそうだよな!

でも。自分じゃない人を愛されちゃったとしたら、もうどうにも立ち直れないぞ!

どう転んでも自分じゃない他人にはやはりなれないからな。」

「おれの小説よりわっさんの話の方が面白かったりして。」

「そういう事じゃないでしょ!」

「だから好きな理由がどうとか言ってないで、お互いをじっと見つめ合うんだよ。大事な者同士ならな。」

顔から先に店へ入って行きながら言うから、わっさんとは見つめ合えなかった。

「俺はこのままの目移り貧乏が落ち着くけどな~」

最後、その甲高い大声は、俺の知るいつものわっさんだった。

「店名は変えないんですか~?」

この俺の問い掛けへの答えは無かった。

 

 

書けない時は書かない方が良いよ。私は小説を書かないから知らないけどね。とりあえず手の指の爪を切ったら?

なんで?

触られたら痛そうだし。何をしても汚れが溜まるわ。

 

 

 

初めに俺がこの旧商店街へ入り込んださっきにはゾンビにしか見えなかった人達が、揚々と気色ばんだ姿で1つ方向へ行っている。
姿は変われど、その足取りのゾロゾロとしているのはゾンビのままだ。

そのゾンビ達も、俺と正子も、向かい集う先は同じで。
辿り着いたのは、破裂してぐちゃくちゃに飛び散った死体がまだ見える交通事故の現場だった。

テキパキと働く警察官と救急隊員と消防隊員。野次馬。
パトカーと消防車とに挟まれて立つ俺と正子。

「もういいよ。正子が言う事は何でもかんでも意味しか分からなくて、俺もう」

「言っちゃうの?その先。」

「言わせんなよ。」

消防車のサイドミラーに映る俺の目はパトカーのサイドミラーに映る正子を見ている。

これが、いつも君が見ている君、だ。

 

「ねえ。もし、ここが事故現場じゃなかったら。私達ってさ」

俺は正子の方を見るのは照れ臭く、消防車のサイドミラーに映る自分に向けて応える。

「ハードだな。」

正子はパトカーのサイドミラーに映る自分を見つめて言葉を続ける。

「結局どうなりたいの?」

「出たよ。どんな答えが正解なんだよ。」

「こんな質問、先に訊いた方が負けな気がしたから先にあなたに訊いただけなのよ。」

「イージーだな。」

「あなたとのことでは勝ち敗けは考えないのよ、私。」

「ハッピーだ。」

「ハッピーね。」

 

 

俺は俺の知らない俺で

見透かされている。

私は私で

あなたはあなたで

お互いの虚像と話をしている。

斜め前にある鏡の中で動く顔を
今は見つめ合っていよう。

花は咲かなくても
もう探さなくても
沈黙の中で
俺達の血が騒ぐ。

 

【了】