綺麗じゃない花もあるのよ(#12)

〈続・左島正子からあなたへ〉

私がカフェバーの在るあの本屋へ度々通うのには理由がある。
嫌々で行っているのではないから、「あの本屋を好きな理由がある」と表現するのも間違いではない。
だが、その好きな理由は「行く目的」とは違う様だ。
だから好きな理由はまだハッキリとしてはいない。嫌はハッキリしていて、好きはハッキリしないのが私なんです。
そして、「行く目的」に思い当たるものは無い。

 

お日様が天空の高いところにある昼に街を歩けば何処でも他人とすれ違うし、買い物をすれば大袈裟な礼を差し向けてくる店員がいる。
飲食店で寛いでいれば、ティースプーンを落とす老夫婦とグラスを倒す子供連れがいる。
いつからだろうか?ストローでずずずーっと最後まで吸おうとするのをしなくなったのは。
それに恥ずかしさを覚えて躊躇をしだしたのは。
そういえば子供の頃は早い朝や遅い夜が怖かったものです。
どこにも人がいなかったし、カラスや犬猫は見えないところから突然に声や姿を出すし、そんな時間に表で動いている僅かな数の人達は殊更に大きな音を立てるし。
しかしいつしかそんな時分を逆に清々しく思うように私はなった。
そうなった理由は単純で、他人に私が疲れたからだとハッキリしている。

 

人間の存在は他人の噂話や体制の成り立ちと同列で、「こういう世の中」だと定めたい気持ちそのものが「常識」の骨格だから、人ごとで異なる疲れが肌にチクチク付着してきて毛穴を詰まらせ、皮膚呼吸の息苦しさから切迫していく動悸を禁じ得ずに疲れが増し続けていく。

 

寂しさの無さを身に纏えた実感を捕まえられれば、もし例え先々にその実感を捨て去ることとなっても、どこまでもいつまでも限り無く清々しく行けるのに、敢えて知っている事の中で生きていきたくなんかあるものか。
そして、想像に向かって行きながら生きないと私は死んでしまうと信じられるのです。

 

それからの選択の結果で撃ち殺されるのは別に構わないとも感じる感情の位置が、私の望む居場所なのかとの期待は想像も実際は超えて、圧や痛みを生まない引力で私の歩みを吸い出してくれるものです。

 

血管や息を絞めあげられたり殴られたりして殺されるのは嫌だけど、これまでを思い返せば嫌いな事が更に嫌いな事を呼び集めて私の健康的な生活を乱し、私が大事にする大人の習慣やルーティーンの収拾が付かなくなるものだから、「嫌」の強固な排除を頑なに実践する。
私は心身ともに共感できるみたいなのしか嫌なんです。

 

「その意見は受け止められないけど想いは近い」とか、私にだけ向けられる表情や性格も分からなくて3Dアニメーションのキャラクターにもはや等しいTVタレントやアイドル/パフォーマーやらにオ熱をあげるなんてのは毛頭無しでしょ!?そして私が嫌だったり無しな事と言えば、その主役は何を差し置いても母の存在なんです。

 

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