初めの前のギリを刺す【2】

レジ番の場所に立つミサミは厨房の中にある閉じた折畳式椅子に垂らし掛けられた店主の白いエプロンから床ギリギリの位置にまで伸びた2本の紐を見つめる。

「もし今、あの紐を下に引っ張りでもしたら、紐を掴む私のその拳は床を打ち据え、挙句には大地を突き破ることになるわ。」

なぜなら、自分のギンガムチェックのエプロンの大きな前ポケットへ常に入れてある小銭を揉みしだく指に自ずと力が入るのが分かるからだ。

「よそ見してんじゃねえよ!」

「黙れ。ビビってんじゃねぇぞ、コラ。」

ミサミは厨房の方に体ごと視線を向けたまま寂しん坊な小男の無駄口に応じる。

「は?」

「あ?」

「俺がお前なんかにビビる訳ねえだろが!」

「じゃあ話しかけないでみてもらってもいいかしら。」

「すかしてんなあ。調子こいてんじゃねえぞ!ミサ!」

「その名前で呼ぶな」

「おい、聞いてんのかよ、ミサ!お前こそビビってんか?」

「その名前で呼ぶな」

「は?聞こえねえよ!」

「お前の声、デカ過ぎる。」

「そうなんだよ。コンビニでメビウスの7ミリくれって言ったら、そんなのありません、だって。シッシッシッシ(笑)」

話す時の十分の一の笑い声で目を瞑って肩を揺らす小男。

「だからさ、7ミリって分かる?セブンだよ、セブン!、って教えてやった訳。そしたらちゃんと出てくる訳よ。シッシッシッシ(笑)」

「良かったじゃん。」

ミサミにとってはタバコの種類に拘ることも話し声がうるさいことも良くはないが、あのことよりは死ぬほどマシだからそう言った。

「あ?やっぱセブンスターはサイコーだよなあ!な?あ?だろ?ミサもそうだろ?あ?」

「その名前で呼ぶな」

「シッシッシッシ(笑)」

「ほんとお前って幸せそうだなあ。」

「あ?そう?」

「そうよ。」

「ミサってマジでサイコーな!」

「その名前で呼ぶな」

「シッシッシッシ(笑)シッシッシッシ(笑)」

「帰れよ。」

「シッシッシッシ(笑)」

路地の向こう端の大通りからスーパーカブのライトがミサミの方に曲がって真っ直ぐに入ってくる。
そのライトの明かりがミサミの黒眼に猛然と差し込んで来ても眩しく無くて平気なのは、今日が曇りでも雨でもない良い天気で、時間がまだ夕方よりもずっと前だからだろう。

「もう帰れよ。」

「お?客か?」

「話、終わったんだろ?」

「まだ終わってはねえんだけどな。色々あんだよ、今回は。」

「でも。もう店主もそろそろかもしんないし。」

「今日はこんだけな。」

小男はいつもの様にポケットから全ての小銭を取り出して机に置いて席を立つ。

「お前だって、もうそろそろなんじゃねえのか?な、ミサちゃん!」

結局、小男はミサミとずっと目を合わせることの無いままに店を出て路地を抜け、小股でせかせかと歩き大通りを目指す。

ミサミは小男が大通りに消えて行ってからテーブルの上で一本に積み上がっている小銭のタワーを横から一気にかっさらい叫んだ。

「私はミサミだ!」

それからミサミは小銭を自分のエプロンのポケットへしまいながら店の中を見渡すが、さっきの餌やりの時間から他の客が増えた様子は無いし、追加のオーダーも来なそうだ。
そして窓際の水槽を見てもミサミの居る所からは生い茂る水草と立ち昇る気泡しか見えなくなってしまっている。
それを確認すると、ミサミはおもむろに店前の掃き掃除を始めるのだった。
だが、夜に閉店業務までやることになった日には水槽のガラス面に顔を近づけては眠りに就くカラフルなダンサー達に向けて必ずこう話しかけてしまう。

「古びない時計だってあるんだね。」

 

第3話へ続く

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初めの前のギリを刺す【1】

ここぞってタイミングなのに気分が乗らない時は「自分の中の紐を押せば良い」んだわ。

その言葉を思い出したミサミは、ロールスクリーンの脇に沿ってスッと下に伸びている紐を見つめる。

「気分が乗らないから紐を押してみても良いんだよな?」

「ふぅん」

窓際に置かれた水槽のタイマーが餌を水面にばら撒く音が相槌と同じタイミングで鳴るや否や、色とりどりの水中生物達が一斉に水面近くへと集まって来る。

普段は感情や表情なんて見て取れない丸い瞳の生命群がカラダ中から食欲を漲らせ、餌をついばみながら、俊敏に押し合い圧し合いしている。

そんなカラフルなダンサー達の動きに合わせて散り散りになりながらも舞い踊る褐色のつぶつぶは、ひとつも水底の穏やかな所へと到着することは無く、全てが沢山のほんの小さな胃袋の中へと吸い込まれ、ミサミの視界からは綺麗に消え失せてしまった。

「終わったな。」

ミサミは振り向き、レジスターの脇に立ってこちらを見ている若い小男の方へと歩き出した。

「待った?」

「なんてこたないよ!」

「で、今日は何食った?」

「まだなんも。今来たとこだろうが!」

「あ、そう?知らなかった。」

「店主はいないのか?」

「いるよ。」

「そっか。」

若い小男は厨房とトイレの方を見る。

「まだ来てないけどね。」

「じゃあ丁度良かった。」

「何がよ?」

「お前が作れよ。」

「お前って誰さ。」

「誰でも良いよ。」

「誰もいねえよ。」

「だからお前が作れって!」

「うるさい!」

「は?」

「小魚君は勝手に座ってて。」

「は〜い。」

窓の外には一直線で細い路地が伸びている。

男の人がギリギリ擦れ違える程度の狭さのその路地を店の中から見ても、実は遠くの方まで見通す事が出来るが、今が何時なのかは意外とハッキリしない。

だからといって時が止まっているかの様な錯覚に浸れる訳では無い。

何故ならば餌の時間は定期的に来るし、少しずつでも客が来るし、気分が乗らない理由は消えないし、そもそもその理由はまだ予感めいたものとして芽生えたばかりなのかもしれないし。

第2話へ続く⇒

ヨシハチは変声期<11>

近所に住まいのある、
マサト
ヨシオ
エリ
サチ
ミク
と俺、ヨシハチ。
この6人は春の新学期からコマドリ塾に通い出した。

夏休みに入る直前の頃までには、昨年度には特段の仲良しであった訳ではない俺達6人が、コマドリ塾コミュニティー内での独特の解放感の膨らみから、パピルニーで交わされることの無い遣り取りを交わすのすら当たり前になっていく。

マサトは「妹が出来たから。それでお母さんが忙しくなるから、俺には勉強をさせて手ガカカラナイ様にしたかったんだってさ。」と述べる。

ヨシオは「塾に行く!って親に言ったら、お小遣いが1日百五十円になったんだよ。」と喜ぶ。

エリは「スマホ買って貰っちゃった!」と自慢気だ。

サチは「私も!勉強がんばるなら、って条件でスマホを買ってくれた!」とはしゃぐ。

ミクは「ヨシハチは?」と尋ねてきた。

実は俺個人については、もう新年度明け早々には既に新種の萌芽を自分の中に意識出来ていたのだが、「俺は特には何も。」と返し、「ミクは?」と続けた。

「無理せずに頑張りなさい、ってお父さんが言ってくれた。」
とミクは照れる。

ここの清潔な天井、床、壁の塗装、そしてそれらで区切られた空間に置かれた目新しい物々に触発され、俺達は名前を呼ばれる機会と誰かの名前を呼ぶ機会のどちらもが増えていった。

たゆまなく髪を撫でる生気に満ちた風と空気が含む刺激から、自由が形を成した球体を敷き詰めたボールプールで羽ばたく仕草をする俺をいつでも見せたくて、見せたくて。
誰彼を構わず誰にでも見せたくて。

これまでの俺にとって季節は、文字で見て認識するだけで充分に足りる交通標識だと考えていた。

季節を表す文字を目に留めることはあっても直接的に自分と関係のある事象なのだとは思いもしない人間だった。

また、真新しい鳥かごの中ではコマドリ達の囀りも耳心地いい。
聞きたい事と聞きたくない事の境目は無く、俺はコマドリ達の囀りについては何でもスラスラと聞き取っていった。

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【第12話へつづく】

ヨシハチは変声期<10>

今日まで俺が塾に行かないままであったのは、既にあるどの塾も車での送り迎え無くしては通えない場所にしかないからだった。

たぶん。

軽自動車ではあるが、父も母も車をそれぞれ1台ずつ所有しているのだから、これまでも送り迎えは物理的に不可能な手間では無かったはずだ。

俺が想像するに、実際のところは、送り迎えの車で出来る渋滞を嫌悪しているから、俺を塾へ通わせたがらないのだろう。
渋滞を作ってしまうのを避けられないままに車での送り迎えを続ける他の親達と同じ人間の部類に父母は入りたくないのだ。しかしながら、遂に今夜は父母の口が塾についての話題を発したのだ。

「切取町に新しい塾が出来たのよ。」

「そっか。良かったじゃないか。」

ここで父が言った「良かった」とは?
この反応が作る風向きは、俺をどこへ飛ばしていく方角を差していると捉えるべきなのだろうか?
母はどこを意図して父にまで伝えることとしたのか?
俺の年齢を加味して「そろそろ塾にでも」と思っていたからなのだろうか?
父の発した「良かった」は、単に父がリビングでの母との会話を無難に進めたい気分から口走った「良かった」だったのか?
はたまた俺が塾へ通うのに丁度良い立地だったからなのだろうか?

この時の俺はエアコンもヒーターも電灯もとうに切ってしまった後の冷んやりとした小さな部屋の暗がりの中、鼻腔の真下まで引っ張り上げた厚い布団の掠れる音すらもさせない様に微塵も動かず、鼻の奥と口の端から流れ出る温かな自分の息づかいに煽られて昂ぶる気持ちから、両目の瞬きを抑えられないでいた。

そんな閉じられた場所に居る俺。

リビングに居る夫婦の未公開バランスシート。

狭くて広い世界の君達。

許す事をまだ知らないパピルニーの囚人達。

来春から俺は切取町のコマドリ塾へ通う。

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ヨシハチは変声期<9>

「切取町に新しく塾が出来るらしいよ。」

この情報はパピルニーの囚人達からだけではなく外の世界の大人達伝手にも届いて来た。

「塾」と言えば、もっぱら我々パピルニーの囚人達にとってはとっても貴重な居場所。

塾に居る間の時の俺達は監獄と娑婆との狭間の位置に立たせてもらっている仮釈放者に成れるのである。

また、俺達は、徳を積み上げる為の特別で正当な修行を積むことから悟りを開かんとする位の低い僧でもある訳だ。

とは言うものの俺の父母の話題にずっと上ったことのなかったのが、このありふれているはずな「塾」という単語であった。
だから俺は今まで塾に通ったことも訪れたことすらも勿論ないのだ。
そんな俺にとって、塾は空想上のものであり「期待の地」となっていて、殊更に神殿の如く煌びやかで厳かな存在感を基調とした救済の象徴なのである。

そう言えば、父母と一緒にいる時の俺は家族3人で何の話をしてきだろうか?実は其の殆どを俺の脳は覚えられていない。

パピルニーでの会話はというと、夏の砂浜で灼熱の太陽光を浴びながら遊ぶ子供達が不規則に跳ね回る様子に似ているのだが、その場の雰囲気の表面から沈み落ちない言葉を選んでは、それらを一個一個浮かべて漂わせていくのが父母との間のそれだ。
だからと言って父母との会話が恐る恐る慎重にしなければならない代物となっているのではないが、表面張力程度の緊張感の存在が固い基礎になって建っている対話の塔な気がする。これは父母も同じ感覚なのだろうか?

議事を進めるべき問題意識は持ち込まず、原理原則という世の核心を目指す必要は初めから無く、アメンボウの話もしない。

それでも父は時折で玉虫やゲンゴロウ、オニヤンマなどの話を自分の幼少期の思い出話に織り交ぜて楽しそうにしてくれたのだが、俺の周りでは残念ながら玉虫・ゲンゴロウ・オニヤンマ達は幻想や画面の中で見るしか出来ないだけの存在となってしまっている。
そして、採集癖がある訳ではないし、俺にとって虫はおもちゃでもない。

母は父とはまた違っている。
まず第1に言葉の量が父よりも母の方が格段に多い。
父は酒や自分に酔った時にだけ口数が急激に増えるのだが、これは垂れ流されている動画と同じ扱いしかし得ない類いの、非現実的な手で触れてはいけない挙動だ。

ただ、母が口にする話も、現実の場のという表層の奥には、幾重にも意識の層が折り重なっている、と俺に感じさせてくる心象があって、父による酔いからの戯言との優劣については差をつけ難いと俺は感じている。
そして感情、印象、情緒の増縮、脈絡の無さが貫かれていて、興味や衝動で取捨選択される言葉の連なりでなく毛穴という毛穴から迸る臭い物を拭わずコロコロと表情を変えては言葉を発する母も、俺にとっては赤の他人と等しい生物だと捉え直してから向き合うべき相手となる。

いずれにしろ俺は父母との対話の内容をよくは覚えておらず、よっぽどそんな彼らの口からは聞く機会のない単語の方が記憶域に鎮座しがちであるが故に覚えてしまっていたりもする。
「新商品」「BBQ」「セックス」「戦争」「1DAYパス」などなど、「塾」の他にも我が家では聞かれない単語が幾つもあることをパピルニーで知ることとなった。
こういった君谷家にとっての外来単語達は父母ら自身から欠け落ちた破片とでも言えるのだろうか?パピルニーで聞き増えていく単語の行く先が知れずに怖く、忘れても良いものか保管しておくべきなのかを判断しかねて迷いに陥る現象も怖くある。

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ヨシハチは変声期<8>

そんなのろま先輩の後輩にあたる手練れの者から愚痴を聞かされている方の人達は何を考えて聞いてきたのだろうか。
愚痴だけでなく愛情表現や親切だって排泄行為と捉えた方がしっくりくるし、すっきりもするのに。
排泄行為を何度となく重ねるのろま先輩の後輩にあたる手練れの者にとって、異性は特定の誰かに、同性は皆敵に見えて仕方がなくなっているのだろう。
ならば、手練れの内に秘めた異性の話も、パピルニーに小糠雨を降らす曇天の正午を思い起こさせる代物でしかないのだろうか。

「エレベーターに付いてる鏡って何のため鏡なのか知ってる?」

「え?何なの?知らないわ。」

「鏡がついてるエレベーターは車椅子の方のためにあるの。車椅子が安全にバックできるためにあるのよ。」

保育士2人組の話の雨雲は、思いがけず上がりそうな空模様へと流れ出した。

「たいへんに美味しいセルフの店」を出て駐車場へと向かうエレベーターの中で、「この鏡はエレベーターの外へ出たいとは思わないのかな?」と思いながら俺は鏡に触れる。

「このエレベーターの中が無人の状態で扉を閉じた時、閉店後に電源を落とされた状態でいる時、君は何を思っているの?」

指の跡が付かない様にセーターの袖でくるんだ手で俺は縦長の鏡の縁を上から下に一度撫でた。

更に、その翌日の朝。

「マキのお父さん、昨日死んじゃったらしいの。」

俺が教室へ入った途端にユミが自ら近づいて来て言う。
それからも次々と教室へ入ってくる者達の前に立ちはだかっては一言一句違わず、マキの父親との死別を繰り返し漏れなく告げていた。
マキは同じクラスではないから、ユミは文字通りクラスの全員に知らせたのだろう。

トシキはマキに対してどの様に振舞うのだろうか。

マキのお父さんが死んでも、トシキはマキが好きなのだろうか。

マキのお父さんが死んでも、マキは周りの同性達に妬まれ続けるのか、それとも、違った局面へと事態が変異し始めるのか。

俺には判らない。

ユミには、マキの不幸が落ち着いてからで構わないから、今度は「ナメクジって痛いこととか絶対してこないよね。」って話もクラス全員にお知らせして欲しい。

用務員がホースで撒いた水でパピルニーの中庭の池に架かった小さな虹を見ながら俺はそう願った。

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ヨシハチは変声期<7>

その日の夜。

生姜風味で熱々の冬瓜スープをスプーンでゆっくりと口に運び、ブロッコリーや人参、蕪、グリーンアスパラ、南瓜などのボイル野菜を中心に、油っこくは無い料理ばかりを選んで、「たいへんに美味しいセルフの店」と看板で銘打ってあるビュッフェの専門店で家族の食事をしていた時のこと。
俺は揚げ物やソテーといった油物が苦手だから、油物全般の味が嫌いではないんだけれど、飲み込んだ後から途端に気持ち悪くなってばかりだから油ものは苦手だ。

「グループリーダーがマジぽんこつで。」

「まだ若い人なの?」

「そんなもう若くはない先輩の人。」

「キャリアはそこそこ長いんだね。もしかしてその先輩って、保護者とのトラブルとかもあったりするやつ?」

「う~ん。それはたまにだけどね。無いわけじゃない。でもやっぱりたまにはあるのよ。」

「そっかあ。でもさあ、トラブルはどこにでもあるし、トラブルの内容でもヤバさ違うじゃない。」

「まあ確かに。」

「アレルギーへのケアとフォローが冷や冷やなんだよね、特に。」

「え?アレルギー案件はやばくない?!」

「そう、やばいの。おやつの後にはする手洗いを、給食の後にはしなかったりとかあるのよ。」

「やっば。おやつも給食も同じでしょうよ。」

「後、とにかく仕切りがのろくて、私達がどうしたら良いのか困ることばっかりで。その先輩の仕切りが悪いのは、子供達みんなに申し訳無いわあ。」

「ああ、それは本当に大変だよねえ。」

隣の席から20代前半くらいの保育士らしき2人組の女性客達の話を俺は聞いていた。

同席している父母らは、普段から長年のちいさな不満の蓄積をキッカケに小競り合いの喧嘩をする位で、他は平穏であるのか、お互いへの関心はもう薄く、俺を経由しない会話はほとんど無いので、円満な家庭を表す為には俺が重要な立場にいる。だけど俺には俺の都合もある。

のろまだとして揶揄される先輩の話をしている彼女達がパピルニーの囚人であった頃も、俺達と同じ構造のパピルニーの中での生活を送っていたのだろうか。
もし同じであったのならば、やはりパピルニーを出所したところで、外の世界でも人の頭の中は抑圧の戦場の最前線か。

意外と吐き出してるから同じことを好んで繰り返しは言わない。
それが人ってものなのを俺は知っている。

なのにこののろまな先輩の後輩の人は、のろま先輩への愚痴を何度も幾人にもしてきた様な流暢な口ぶりだ。
のろま先輩についてのあらゆる類の質問を幾度も受けてきた手練れの者だ。

 

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ヨシハチは変声期<6>

この一連の小騒ぎの傍観者では留まれない俺の心の中に「出来ればその逆剥けにナメクジを這わしてあげたい。」との思いが立った。
カタツムリだと殻を摘んで投げつけられそうだからナメクジだ。

「またそんな気持ちの悪いことしたがるんだから!」

タカシがこの俺の考えを聞いたなら、きっとそんな風に言って、実際にはナメクジを持ち歩いているはずもない俺を制して止めようとしたくて、続けてこう言うのかもしれない。

「カタツムリだってトシキ達は嫌がるよ!」

そこまで想像した俺は、「確かにそうだ。」と感じ、それと同時に悲しい気持ちが溢れる。

もっと前には俺達は皆、塗り絵でカタツムリとも楽しく遊んだはずなのに。
どうして今ではカタツムリですらも汚い者の様に扱っていて、前までの様に可愛がらなくなったのだろうか。
理由があって可愛がれなくなったのだろうか。
いつかナメクジにしつこく悪口でも言われたのだろうか。

俺達は爪や髪や身長が少しずつ伸びていく変化くらいしか無いと思っていたのに。

俺だけは囚人らしくパピルニーに来てからもずっと坊主頭だ。
バリカンで刈られた次の日には決まってジョリジョリ頭を触られる。
触るもの達からすると、さわり心地が気持ち良いのらしい。
だが男達はほとんど触りに来ない。

彼等は俺を妬んでいるのだろうか?

刈られた日から2、3ヶ月も経って伸びてくると、「今日は帰ってからボーズに切って来るんでしょ?」とも言われる。
これは女達が言うことであって男達からほとんど言われない。

この度に俺としては切っているのではなく刈っている感覚だから、いつも切るという言葉にピンとこないままで曖昧な声を出す反応を返すしかできない。
そして生憎なことに土曜日の午後にしか俺は刈らないから、彼女達は刈りたての俺の坊主刈りをジョリジョリすることなど出来やしない。

かたや男達が言うのは、「ハゲ」。
そう言ってからかってくる。

彼等は俺を妬んでいるのだろう。

そして、トシキはモテるから、実はマキは周りの同性達に妬まれているのだろう。

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【第7話へ進む⇒】

ヨシハチは変声期<5>

こうして現実と理想の間で蠢く問題との闘いに集中して取り組みたい最中にあっても、虚像のごとき「謝意という感情」が最も俺を突き動かしたのは、俺が真に罪人であって、このパピルニーがお似合いで、このまま収監されているべきであることを立証するには足りている。

「そうだ。」

涙などというものは、どこかへ辿り着くでも、何かに昇華していくでもなく、この世に確かに「偶然」が存在することを立証する目的の為に活用するべきである。
差し当たって今の俺は、タカシへの止めど無き空虚な罪悪感の圧に息の根を押し込まれている内に、俺は呼吸をして生存を保つためにも泣きに泣いて「ごめん」を言い続ける様に成れている。

「はあ。」

俺は溜息を使って立ち上がり、足元の辺りを見回す。
俺に足りないものはまた見つからなかったが、忘れ物は無さそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

「親指にどっちも逆剥けっていうのができてさあ。」

「サカムケ?」

両手の親指をマキの目の前に差し出してトシキが言う。
その様は誇らしそうだけれど、甘えたくてどうしようもない気持ちの滲み出た身振りに俺には見えた。

トシキが突き出した逆剥けの指をマキが両手の人差し指でツンッツンッと触れるとトシキは「痛っい~」と言い、次にケンタが触ろうとすると、「もうやめろよ!」と両手とも胸元に仕舞って怒り出す。

トシキはマキが好きなのだろう。
ケンタが嫌なのではなく。

トシキはマキの方を向き直して「だから今日は教室掃除なんかしたくないなあ。」とも言う。
そのトシキの両手が胸元で組まれているものだから、まるでマキの躰を借りた神にお願いや懺悔をしている信者の姿にトシキはなっている。
そしてその表情はいつの間にか甘えた風情に戻っている。

「だめだよ!」

マキは即座にトシキに怒ることで諭すのだった。

「えー。」

だがマキに怒られるトシキは嬉しそうだ。

やはりトシキはマキが好きなのだろう。

【⇐第四話へ戻る】

【第六話へ続く⇒】

ヨシハチは変声期<4>

「そんなことであるものか。」

後ろを振り向き、換気のために開け放たれたままになっている窓の先に広がった黄金色の夕陽を目掛け、俺はタイル貼りの薄く湿った床の上を駆け抜ける。

もう今の俺にとっては此のサッシを乗り越えるのが難しいはずはない。

単なる窓枠でしかない物体が狭まっていくという幻覚の代物であるパピルニー特有の此の結界を、全身で突き破り着地した所が胎内であって欲しい。

胎内に着地してから思い返してみれば、パピルニーの中の全てがもう既に完結済であったとの証明も出来る。

そうなれば母の子宮の伸縮に揺られているだけで誰にも邪魔されず、悲しまれもせず、死刑執行の日を迎え入れる前に、追われない仕方での「脱パピルニー」も叶うんだ。

だから俺は、着地が成功する夢想と黄金色の光に包まれて守られながらタイル貼りの薄く湿ったトイレの床の上を窓へ向けて駆け続ける。

だがその内に、背中のランドセルと左肩のトートバッグが、女郎蜘蛛から噴射された鎖に変異し、俺の全身へと恐怖を張り巡らせ、前後左右上下の判別を麻痺させてくる。

女郎蜘蛛から逃げるという決意では、走る動きをこのまま続けられても、全方位360度の位置関係と重力すらも張り裂けては飛び散り、俺はまんまと鎖の網に四肢をからみとられてしまい、パピルニー側の思う壺にはまる。

走り続けた末に、「俺には何かが足りないんだ。」と悔いながらも、両手を前に突き出して窓枠のレールに両足で乗り上げ、兎跳びの要領で両膝を伸ばして弾いた体が飛び出した時にも、まだ俺は変化した訳では無くて、何かが足りないままだった。

窓の外はやっぱり広くて、涼やかな向かい風が小さな小さな幾千もの紙飛行機群の様に俺そのものを摩りながら通り過ぎて行く。それと同時に背中のランドセルと左肩のトートバッグは女郎蜘蛛の鎖の変異が解け、次には其の重量が、宙に浮いた俺の上半身を時計回りに回転させた。

もちろん、着地なんて上手く出来たはずがない。
ランドセルはことの外に大きく潰れる音を立てて俺の左の頬をぶった。

トートバッグは手が届く距離にあってしんとしている。

「俺はまず何からするのが良いのだろう。」そう思いながら、今は俺もしんとしてしまう。

まずは、「きみたによしはち。」と、自分で自分の名前を口から発してみたところ、ランドセルがぶってきた衝撃で下唇が切れてしまっていて、イッ!とした痛みが顔面に走ったが、不思議と俺自身と俺が身につけている物達とが一体化している様に感じる。
その感じは、毛布に包まれている心地良さと同じで、俺はまだ身動きをしたくない。

「たかし。ごめんね、たかし。」

タカシはやはり優しい。

こんな俺なのに、いつも優しく話し掛けてくれる。

こんな俺はいつも口下手で、パピルニーに怯えていて、虫が大好きで、タカシのこともきっと好きなのに。

なのに、優しいタカシにまで苛ついた素振りをしたりするのも、実はパピルニーに囚われているばかりの自分を許したくはないから。

更には、同じ環境下の同類な人間のはずなのに、異世界から俺の目の前に度々現れる別の生命体なたかしが羨ましくもあり、分かり合えなくて悲しくもあり、俺は寂しくて孤独で。

それで、俺はたかしに謝りたくなるんだ。

だが謝りの言葉よりも先んじて渾々と湧き出していくのが、涙。涙は俺を下唇の裂けた箇所の表面を生暖かく覆ってきて濡らしては流れ、見る間にマントルのごとく赫く溜まった先の左の耳たぶが痒くなる。

そこを右手手の甲で拭おうとするが、その勢いで地面を殴ってしまった。

「ごめん。ごめん。ごめん。ごめんね、ごめん。」

今ここで謝罪を何層にも高く積み上げていったところでタカシには届きやしない。

ましてや俺だけに聞こえる言葉なんて。

ごめん以外にも一切が不要なはずなのに、真の愚行を繰り返すことの容易さたるや、極めて始末が悪い。

とは言え結局、俺はパピルニーの外ともこういう真の愚行では繋がっているのだろう。

だが、その繋がりは「脱パピルニー」への道筋とは繋がっていない気もするし。

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【第五話へ続く⇒】