綺麗じゃない花もあるのよ(#7)

〈記憶〉

全く水滴の付いていないグラスを顎の角度と水平に保ったまま傾けて豚骨スープ色の液体を少しずつ口にする正子。

ジンジャーフロートを氷無しで

何です?それ

ミントのアイスとジンジャエールです

わぁ、美味しそうですね

さっきの子、親いないんですかね?

いるでしょ

正子が嘲笑気味に言う。

いや、ここにですよ

そう、いるでしょ

俺は、「いないのはマズいですもんね。」と言って、初めてその女の目を見つめた。
相手の目つきから想像を始めようとして見つめかけたのではなく、女の顔があるはずの位置へ目を向けたら相手も俺の目を見ていた次第なのだが。
きっとお互いに同じ状況の流れだったはずで、湧き立つ情熱は微塵も無い。

「どっかでのんでたんですか?私はさっきまで仕事だったのよ。」「まあ、そんなところだね。」
まだ互いに目を合わせたままだったが、ここまで話をしてからは2人とも自分のグラスへ視線を落とす。

 

努力や忍耐をしても結果が出ない人には夢の様な出来事がいつか起きるんだって

わかります?

 

ミントアイスを滑らかに掬い取ってからジンジャーエールをスプーンごとアイスに浸した時に女は言い出した。

 

私の職場にもそういう人いるわ

努力や忍耐をせずに結果を待つ人には、想像できるという意味で普通な出来事が最上

私も何にも起きないここに居る自分にはとっくに飽きてるわ、きっと

 

俺の耳蝸内では時間感覚がまだ歪みしている。冬物の下着を入れた箱に押し込み仕舞ったままになっている懐中時計の秒針が朝顔の蔓の形でカーブして12の位置へ触れようと迫っていく音が聴きたくなった。

 

恋人の帰りでもお待ちになっているの?

そう見えますか?

だってもう恋人か変人のための夜でしょ?今は

それはあなたにとっても同じことでしょう

夜は変も葱も好き

 

他人の言うことは自動的に頭の中で漢字変換して読んでしまうが、変換してからだともう何も相手の事を窺い察し得る機会は生まれない。

 

一番最近の恋人ってどんな男性でした?

恋事(こいごと)についてね

 

やはり水滴の見当たらないグラスを右手で掴んだまま、正子は上下にゆっくり撫でながら左手は腹に当てて顔を頷く様に調子良くスイングさせて唄う様に溜息をついた。

 

宇宙みたいに広い心の人だと思っていたわ

しかし入ってみたら狭く感じたの、私

いくつ?

ばかね

その人の歳の話なんだけど

それであなた仕事は?

他人と知らない仲になるのは苦にならないタチになっているお陰で、なんでも屋フリーターで何とか働いている気にはなれている奴

自惚れないで

「自惚れないで」なんて初めて言われたら、逆に褒められたみたいに嬉しくなっちゃって

わかるわ

 

 

秋という季節がまとめてはやってこないのは子供だからこそ分かっている様な気がする。
目を凝らすのに「わざわざ」と思ってしまう頃には自分自身が秋になっているものだろうし。

 

このシャツくらいヨコシマな気持ちが俺には無いよ

それって結局、袖はヨコシマなままなのよ

手首を折ってしまえってことなの?

あなたって本をたくさん読んでそうだしね

お金を使うのは食事と古着、仕事の前出し経費

だったら彼女なんてしばらくいる訳がなさそうね

俺は靴なんだから、箱にしまってないで吊るしておいて欲しいな

誰かが履いた靴を売っているのなんて見たくもないわよね

ネットで中古の靴を買った時、ゴムのソールの溝に挟まってたよ、白や灰色の小石がたまに

 

 

金曜日になると海よりも風を見たくなる。

人知れず良い知らせを運んでくれるのは風の方。

海は重いばかりで的を得ない。

 

私は小説とかは全然読む気にならないんだから

本音を言うってのは、花粉症の鼻水涙みたいなもん

ミステリーが好きな気がして、答えというかゴールがハッキリしてそうだから読めると思って三冊くらい読んだんだけど

医者は心理の中では働けないから

結局、私には人の気持ち自体がハッキリしたものでないのが落ち着かなくて

俺、ファーブルは政治家だった、て見出しの本に騙されたことある

それからは諦めて読んでないな、小説って

 

 

小説を書こうとしている俺は、小説を書き終えた俺や本にすら触れる前の俺や地方線のタラップに導かれていく時の俺とか、とにかくどんな俺とも全く違わない奴で、既に同じところに居る。
景色の見え方も既に誰しもが同じで、言葉にする仕方だけが奇妙に違ってくるのは何のせいなのだろうか。

 

前に南部出身のインド人に言われた「君に酒は似合わないよ、君にとってお酒は悪を産むよ、私には見えるよ。ユーはミドリがたくさんある所にいるのが似合っているよ。」だってよ

 

記録的な金欠の余波を親の脛で殺して、千円札1枚をバントでコツコツ送り出しながら過ぎた頃の10月20日。今日の正子は冬について話し出している。

 

「私も許していたはずの冬を拒んだ夜があったわ。」

 

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