[或る用の疎]<9>第2章『由』(2)

2059年現在、間間タスケは24歳の男性。

彼も、世界中の大多数の他の人間と同じく職業は特に無し。
この現代には前時代的な労働はテクノロジーにより自動化されて人間が従事する労働は消滅する時期に至り、人類の無職化が図られたことで、前時代的な貨幣経済の増幅進行は中断された。
そして貨幣が存在せず、金稼ぎも存在しない世の中となったのだが、仕事はある。タスケは詩人ではある。詩人を仕事としている。

「生活のための仕事」を形成する「労働と職業」が民衆の生活の中から無くなった現代においても、学校と学生は存在する。生活の術と未来を作るための教養を広めたり築く方法として。
仕事をしない者は学校で学ぶ事が出来て、20歳を過ぎて仕事も学びもしたくない者は存在しない。
しなければならない事が無ければ、何をしたいのか解らなくなる事もない。

そもそも根源的に「何もしたくない」とする者には、禅(zen)や涅槃(nirvana)などといった、21世紀中に ”文化活動” へと昇華されきったことで今では仕事の代替とされる様になった ”風俗” が、そんな者達の立つ瀬となったからだ。
そしてそんな者達の日常は、人類の成熟のために変化や研鑽を育むタイプの「仕事」を行う者として期待をされる社会的価値が明確なものとなった。また、その価値はどの全ても同等である。

 

さて。未知予は22歳の学生で子供はまだいないし、もちろん就職活動はしていない。
それは、就職という概念を現代の人間は持たされていないのだから、当然で仕方が無い。

だが、タスケが「詩人」という仕事を持つ様に、未知予も幾つかの気に入った仕事を持っていて、その仕事達を気の向いた時にしていて、今のところ、どれか1つの仕事に絞る気はまだない、らしい。

 

そんな彼らの生活スタイルが生じる理由とはどういうものなのか?
それは今から9年前の2050年の出来事だった。
世界は「世代を越えて、皆んなが共有できる未来である平穏な状態」をまず第一に保つため、人々は労働ストレスの無い生活を最優先とする中で平和に向けての仕事に出来うる限り従事する、という取り決めが施行されて世界の金融市場を終焉する試みが始まったのだ。
なぜか?「世代を越えて、皆んなが共有できる未来を持つこと」を ”社会の成熟” と位置付けたから、だとのことだ。

また共有との反面で、一般生活の中での個々人の多様化の発現と、その許容の風潮は、21世紀初頭の我らが日本国でのレベルも世界と足並みを揃え、同時に地球の隅々まで世界平和が行き渡った。

その事実を知らないまま、自分達だけのコミュニティーの中で大きな変異の無いまま何代にも渡って平穏に暮し続けている民族も相変わらず複数ある。
ただ、あまねく資本主義社会における人々の多様性とは資産を永続的には産まず育まず、独創性は争いに収束する事となり、保有資産や年間所得額を足場にしたピラミッドの構造は成り立たなくなっただけな様に私は思う。

 

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