エッセイ -5- 「人柱」

 

『人柱』

 

人生は、その不確実性を楽しむものだ。

同時に不確実性を恐れたり悲しんで歩まず

止めるのも人。

止めても、人。

 

だから、まずはこの不確実性を

受け入れることから。

 

そうでなければ、時間ばかりが過ぎて行き、

自分はどこにも行けていないことになる。

 

だから、

人生の歩みを”得”を取りに行くための道だと考える人は

どこへも行けない人であって、

 

故に大群を成して

社会の礎となっているのである。

 

そして、そんな人柱に支えられている社会は

 

不確実性に乏しい。

 

〜2019.09.12 次の執筆の前に思い起こすには〜

エッセイ -4- 「日本VSポーランド戦から学んだこと」

走る・献身・結束、といったキーワードが

サッカー日本代表チームのプレイからマスメディアを通じて

私たちの元に届けられる最近。

 

スポーツのチカラが我々庶民にはとても励みや道標などとなり

とても好ましいことです。

 

悩まないで考えよう。
考えられないなら動こう。
動く時は見回そう。
同時に自分の立ち位置をよく知ろう。
動き出す前に整えよう。
「何を整える?」
自分のよろしく無いポイントなんて重過ぎるほど知ってるでしょう!?

 

ゼロ歳児から死に際まで”伸ばせる能力”であり、

生活上であまねく”求められる能力”であるのが

自己管理能力。

 

これの高さで、走る・献身・結束のチカラの評価の高さも決まる。

ただし評価されるステージに立たなければ評価はされない。
※登壇のキッカケは自薦他薦問わない。

 

 

毎度、自分の事は棚上げしますが。

 

まあだいたいが、お金(または余裕を支える何かしらの私産)が無い人が

文句・不平・不安を垂れ流すだけの時間を積み上げます。

 

ナゼカ??

 

「垂れ流すだけ」を決断しているからです。

そういう管理を自分に施しているから。

 

 

動く前提で見回すという習慣付けは

横断歩道に立つ小学一年生だけでなく

我々庶民も心して努める価値がありそうだ。

 

 

と、日本VSポーランド戦が終わった後にも思いそうで書いた次第。

 

自分の中には無かった(もしくは閉じ込めていた)発想

 

なんてものをもらえる観戦になることを期待しながら

 

ショパンでも聞きましょうか。スマホで。

〜2018年6月の出来事より〜

エッセイ -3- 「もう一歩」

つい最近までは『リスク(危機)』を軸、テーマ、コンセプト、視点、大義、
要は「特筆する判断基準」として発信された情報を受ける日々が多かったかの様に考える今日。

そして、そんな今は『倫理』が『リスク(危機)』に取って代わり切った様に思っている。

 

にしてもどちらも、我々大衆が容易に参加しやすいネタを用いた発信方法で届けられる情報であることに変わりは無い。

 

またどちらの要素(リスクと倫理)にしても
「それについての管理能力を持ち合わている訳ではない大衆」
がうず高く盛大に作り上げられている。

尚、ここで私が表すところの「大衆」とは「いい人」と言った方が分かりやすいであろうか。

 

リスクにしても倫理にしても、
それらは”もう一歩”を踏み込んだ感覚のことであり熱を帯びないものである。
地球規模での広い見識の元にある客観性がその感覚を働かせるのには必要だ。

だがそれを一般的な領域に暮らす我々が実行したり、他者達の中で発現をし得るだろうか、否。

 

かたや、いい人は流行で、いっときの熱(高低はどちらも可)そのものである。
我々の居る狭い領域の中だからこそ発生しやすい熱である。小さな空間や狭い隙間が我々の心地良い居場所。

 

嗚呼さて、そろそろ〆よう。

 

『エラー(過ち)』を無くすための社会教育を受けながら、

明るく楽しく生きるのが正解と自らを鼓舞するスイッチを

確実に取り付けられた我々大衆の未来の在り方は

良くも悪くも「若年性痴呆者」である。

一昔前には「思考停止」とされたソレだ。

 

今時の若者は常にそうであるし、昔の若者は幾つになってもそうだ。

〜2018.05.04の出来事より〜

エッセイ -2- 「学ぶなどや、経験たるや」

この塵文請笑は(私の感覚の中では)マイルドクローズドなハコの中でのプロジェクト。

 

なので、世界中の未読者の方々や、奇特な極少数の既読者の方々へ

「あーだこーだ」直球のメッセージを無用に投げるつもりは毛頭ない。

だが、

私の中でうぞうぞしている言いたい何事かは確実にある。

 

今回は、私の40年にも満たない半生を振り返り、
自覚として私自身の大きな素となっているであろう
”文化”について想いを馳せながらキーボードを押してみた。

 

さて、

今の時代、

生き抜く上では「最適化」と「感覚」

も重要なキーワードとなると私は考えている。

(これは、延々と続いている”自己管理能力”の
必要性に基づく発想でもある。)

 

上記仮説の前提では、メジャー/マイナー、高尚/低俗などの枠の間の「/」(ハードル)を取り除き、

 

縦横無尽にその間を往来し、全方位にアンテナを張り、他者達の表現に

(没頭するまでの必要は無く、軽くでも)触れて得た衝撃を許容できるフラットな状況に身を置けていなければ、

 

人間の感覚は「露頭」にすら辿り着かないのではないのだろうか。

 

ましてや、理性・論理が希薄なまま感情を振り回した挙句では感情に振り回され、

それにより己を社会に最適化するまでの工程が何処までも長く伸びる。

だからいつからでも遅くないので、闇雲に失敗するよりも文化に触れたが早い。

なんせ、どんな先にも必ず更に先があり続け、先になればなるほど面白いのだから、

早い方が良い。

 

現実的には、与えられた選択肢の中から選ぶ事が精いっぱいで、

惑う事はあれど迷う事すら叶いにくい。

ましてや「考える」ことなど出来ている訳がない。

そしてこの状況は老若男女を問わず発現している。

人間そのものよりも、枠の方が広がっていっているからだ。

 

ただ、その枠も人間が作ったものだという事は忘れ置いてはいけないだろう。

 

まあそもそもで、「ゼロ歳児」の持つアンテナを取り戻すべきなのかも…
当時のことは覚えてないけど、自分の中の何処かに必ずある。
といった考えを主題にした小説の構想もある。

 

~2017.12.01の出来事より~

エッセイ -1- 「名前自慢」

私の名前は「青山 玄」。
私の父方の祖父の名前が「青山 玄一」であったことから、私には「玄」という名が付されたそうです。そう、祖父のマイナス「1」が私です(笑)

さて。
今朝方、仕事先のトイレのカレンダーが4月のものに変わっているのに気が付きました。ちなみに、今年のそのカレンダーは毎月、漢文ネタを発信してくれています。

そして、その中にこんな一節がありました。

「空を談じ、玄を説く」

これまた何だか自慢出来る俺得ネタの臭いがプンプンするなと思い、ググってみたところ・・・解説の様な記事は出てきませんでした(笑)

 

※補足※
『産れたこと』と『名前』は、自分の人生の中において極めて貴重な【自分の決断を含まない純然たる貰い物である2つ】だと肝に銘じ、それらと向き合うように普段からしています。
そして、この2点についてのお褒めの様なお言葉をどなたかから頂戴した場合には例外なく、謙遜・照れ無く「良く言われます!」とドヤ顏か満面の笑みで乗っかり自慢をさせて頂く。あくまで貰い物であり、変化の無い事なので。
※※※※

 

ただ、検索に該当した記事達の要約文を眺めていた中に、こんな1節を発見したことで想像より以上の満足を得る事となります。

 

「goo辞書 げん【玄】の意味

2 老荘思想で説く哲理。空間・時間を超越し、

天地万象の根源となるもの。」

 

要は、

 

【時空を超越した天地万象の根源となるもの、それが玄】

 

文句無しで凄く良いよね!(笑)

 

小学校でよくある「自分の名前の由来」を発表する宿題の時は、「玄関の様な奥行きのある人間になって欲しい」という聞き取り結果だったんだけど・・・。玄関の奥行きなんてたかが知れてるし(笑)

 

尚。父に聞いた話だが、青山家の日本戸籍は祖父・玄一から始まっているらしい。
「本人の希望により」という1節も入っているとのこと?!中国からの移民だったのかな?原爆で戸籍簿が燃え消えたのかな?
ともあれ一度は中国へ訪れてみたいものだ。

 

※補足※
当の父は、3歳の時に長崎で被爆して、そこから続く戦後のゴタゴタの影響もあって中卒で働きはじめた者だし、在宅時はたいがい酔っぱらっていたし、長崎男児らしく見栄っ張りでもあるので、彼の文字知識由来の発言への信頼は薄く持つ様にしてはいる。
※※※※

 

そんな私の名前。
名前負けするのは仕方がないが、「我漫ずるところ無ければ道も無し」(われまんずるところなければみちもなし)。
せめてもは、公然と名乗れないような事を起こさない様に気を配り歩きたい。

 

~2018.04.02の出来事より~