この塵文請笑は(私の感覚の中では)マイルドクローズドなハコの中でのプロジェクト。
なので、世界中の未読者の方々や、奇特な極少数の既読者の方々へ
「あーだこーだ」直球のメッセージを無用に投げるつもりは毛頭ない。
だが、
私の中でうぞうぞしている言いたい何事かは確実にある。
今回は、私の40年にも満たない半生を振り返り、
自覚として私自身の大きな素となっているであろう
”文化”について想いを馳せながらキーボードを押してみた。
さて、
今の時代、
生き抜く上では「最適化」と「感覚」
も重要なキーワードとなると私は考えている。
(これは、延々と続いている”自己管理能力”の
必要性に基づく発想でもある。)
上記仮説の前提では、メジャー/マイナー、高尚/低俗などの枠の間の「/」(ハードル)を取り除き、
縦横無尽にその間を往来し、全方位にアンテナを張り、他者達の表現に
(没頭するまでの必要は無く、軽くでも)触れて得た衝撃を許容できるフラットな状況に身を置けていなければ、
人間の感覚は「露頭」にすら辿り着かないのではないのだろうか。
ましてや、理性・論理が希薄なまま感情を振り回した挙句では感情に振り回され、
それにより己を社会に最適化するまでの工程が何処までも長く伸びる。
だからいつからでも遅くないので、闇雲に失敗するよりも文化に触れたが早い。
なんせ、どんな先にも必ず更に先があり続け、先になればなるほど面白いのだから、
早い方が良い。
現実的には、与えられた選択肢の中から選ぶ事が精いっぱいで、
惑う事はあれど迷う事すら叶いにくい。
ましてや「考える」ことなど出来ている訳がない。
そしてこの状況は老若男女を問わず発現している。
人間そのものよりも、枠の方が広がっていっているからだ。
ただ、その枠も人間が作ったものだという事は忘れ置いてはいけないだろう。
まあそもそもで、「ゼロ歳児」の持つアンテナを取り戻すべきなのかも…
当時のことは覚えてないけど、自分の中の何処かに必ずある。
といった考えを主題にした小説の構想もある。
~2017.12.01の出来事より~