〈家の中〉
時間は確か26時か27時くらいだったのだろうか。俺はションベンがしたくなってトイレへ行った。
エアコンのオートセンサーに室内温度の調整を任せるのが叶ってしまう此のほんの小さな家の中では、年がら年中を薄着で過ごしていても高価とはならない光熱費で足りる昨今の家電事情。
それでも流石にこの季節にシャワーバスと洗面台と便器が一体となった3点ユニットバスの中へと夜中に足を踏み入れれば、そこに溜まっていた冷気や乾燥がスーっと首元やら鼠蹊部にまず絡みついてくる。
そこから瞬く間に躰全体へ染み込んでもいくのが“絡みついてくるもの”の性質で、俺はこの絡みついてくるものに対してはいつも気を立てて用心をしている。
品のあるアイボリー色で覆われ、心地良く、日々の小さな安息のためにあって欲しいこの空間の中で急速に喰らいついてくる冷気と乾燥が残した歯痕から生え出す寒気による抱擁は、安息がもたらしうる救いの地とは真反対の方角へ俺を貶めようと冬の度ごとに繰り返すからだ。
本当は大便だけに限らず小便も便座に座って出した方が便器の淵々に飛び散る便沫の付着を減らせるという点で、手入れや掃除が楽となり好都合なのだが。
束縛にも似た寒気の抱擁は、その程度の清潔対策に俺が構うのなんて一切許さず、すぐに退散が出来る体勢を俺に強要し続ける。
ただ傍目には、便器の前に立つ俺が、物心ついてからの何十年もの間で何万回をも繰り返してきたタッション・スタイルで着水点を朦朧と見つめて不規則に響いてくぐもり鳴る音を目を閉じて聴いているだけに過ぎない。
かたや瞬き程の音も立てず密やかに夜を支配する閉塞的な3点ユニットバスの中の中規模な冬軍が、暖気を引き連れ何の礼も示さずに突如として領土へ侵入をしてきた上に小便で穢す等する仇敵へ、冷気の波で攻撃を浴びせ続けている糾合も聞こえない。
それからの明くる朝。朝とはいえ、もう時計は十一時を回った頃。
いつもの様に十時までには目を覚ましていた俺はインスタ・ツイッター・LINE・フェイブック・メールを全て一通りチェックだけしてから漸く布団から抜け出た。本日も予定はゼロだがタオルケットをかぶせただけの折畳式マットレスの薄クッション越しに伝わってくるフローリングの温度はまだ低く、寝転んだままでいると肩コリや頭痛でもしてきそうなチリつく悪寒がする。
玄関と接してある台所の電球を灯してから常温で放置している麦茶を飲んだ。そして煙草を一本吸って、それからまた麦茶を一口だけ飲んだ後でトイレへ行く。
そのトイレで俺の毎日のルーティーンを遮り、俺の楽観的嗜好充填型生活様式への依存の中でも不規則に胎動の脈を打つ自己批判ウィルスの澱と俺とを無理矢理に対峙させる物が、夜中には無かったはずなのに今はある。
それは、「探さないで下さい。」との一言だけが書かれた便器の蓋。
夜中の排尿の時には寒いわ眠いわの事態であったが故に、尿意を解消してしまうと手洗いもせず直ぐに寝床へ戻ったものだから、それがあったのか無かったのかは今となっては不確かだ。
「探さないで下さい。何をだよ。何なんだよこれ。」
苛つきながら便器に向けて囁いた俺だが、今回はこの苛つきの理由に対して自分で自分に腹を立たせて脳内発狂を始めてソファーへしな垂れてしまうのではなく、実家から持って来たままだった薄緑で小さな花柄が散りばめられ柔らかな肌ざわりのカバーを便器の蓋に取り付けて家を出た。