綺麗じゃない花もあるのよ(#3)

オッサンが返してきた言葉に混乱する俺は、頭の中に組み立てていた現実を取り壊し、作り笑顔を作ることとした。
だが、すでに脳味噌の鳩尾に尿酸みたいなのが溜まってきて考えることが止まらなくなっていて、オッサンの言わんとすることの不明さに心臓は高鳴ってゆくばかり

 

密閉したミキシング・ルームの中へ設計通りに押し込められた超巨大なコンソールの表面を

滑り旋回するフェダーやツマミやVUメーターの針達が醸す躍動とは真逆の

奔放な快楽に頬ずりしていた時代が沁みったれたアーリーアメリカン内装の喫茶店では

それぞれのテーブルの真ん中に1個ずつ色違いで置かれているがために

一握りにした宇宙の様に供えられているパステルカラーのシリコン製シュガーポットの内部で

びっしり身を寄せ合いこびり付いたつぶつぶした流線型達が

虫かクミンシードかを俺が分からないのと同じだ

 

と考えている間に、顔が裂けて割れるほどに大きな馬鹿笑いの声が頭の中で膨らんで口から漏れそうだったが、

「わしの作ったサラシ鯨の炒り煮も!木内さんも最高!」

オッサンの箸置きになってる小鉢の中にあるもののことか

「あははは!」

オッサンの名前って木内なのか

「ワッさんも最高!」

ワッさんと木内が互いに乾杯の仕草をしながら笑い出す始末の方にむしろ耐えられなくなり俺は叫んだ。

「ワッさん!俺も鯨の炒り煮ください!」

カウンター席しかないヴァルールは、だいたいいつもだとそろそろ混みだしてくる時間帯になるのだが、まだ18時を回ったばかりでこのオジさん2人は既にもう酔っ払いそのものにしか見えない。

大丈夫かワッさん

まだ俺たち3人しか店内には居ない割に、俺の声はやかましかったかな

丸っこくて大ぶりで土鍋に似た器に入った鯨に大根、そして人参を合わせた炒り煮

「木内さん。シンちゃんはねえ、こう見えて小説家なんだよ」

九州醤油色で照ったその盛りを菜箸でざっくり煮汁ごと混ぜ返しながら、ワッさんは俺を木内さんに紹介する。

「お兄さんはしんちゃんて言うんですね。てかなに…小説⁈を書くの?」
「ええ。」
「はあ~!」

大袈裟に感嘆して見せながら木内は続ける。

「ワッさん!こう見えてなんて言うのは失礼だよ。シンちゃんは俺らとは違って、見るからに賢そうやし。あ、ごめんね。俺もシンちゃんて呼んじゃって良かですか?」
「いやいやいやそんな。シンちゃんで大丈夫す。むしろ、そうシンちゃんて呼んでください!」
「おお。シンちゃん!良いねえ。」
「でも、小説は書きたくて書いているだけで。小説家なんて言ってもらえるレベルじゃないんですがね。」
「シンちゃんのクジラお待たせ。」

料理人特有の逞しさを携えたワッさんの腕の力で俺のおでこの前に鯨の小鉢が運ばれてきた。そして俺の腕が伸びてくるのを、微動だにせず静かに、色具合も佇まいもフクロウの如くピタリとして待っている。

 

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綺麗じゃない花もあるのよ(#2)

〈里緒進一からあなたへ〉

家から一歩でも外へ出てしまってからの俺はいつだって我慢をしている。我慢を強いられている。

「違う。」

多くの無力で真っ当な人間達が作る社会を少数の上に立つ人間達が堅持したいが為の抑圧の重みを俺も一緒になって耐えなければならない惨状の沼に、ここが沼であるという判別なく嵌まりながら、ここが温泉かの様に嬉々として浸かっているのが真っ当な人間だ。
それなのに俺は、「渡るな、吸うな、捨てるな、漏らすな、慌てるな、盗むな、笑うな、泣くな、食べるな、行くな」といった、禁ずる文字ばかりに視覚を取られる俺の脳のどこが異常なのだろうか。
そしてそれら抑圧へ即座に従う俺の身体のどこが正常なのであろうか。
例えばあの日、去年の真夏の夜。
割と頻繁に使う居酒屋でも俺はまた抑圧に屈した。

だが、そんな出来事は、「天才とは苦悩のことを呼ぶのだ」と誇り高く信じる俺にとっては、その痕跡までをつぶさに全て掻き消したい黒歴史(恥ずべき出来事)となりはしない。
なぜなら、今から3年後の2020年には渾身の処女作を寄稿するつもりの新人文学賞でセンセーショナルに俺の才能が世に知れ渡る。
そしてソレをキッカケに名実共に高名な小説家となり上がる俺は、まずこの国で、日本を代表する知識階級を従えた文化人と評される。
また、曲がり狂って酔いたくったこの世界をペンの力で救うメシアとしてメディア界の上層に君臨をしていく最中、俺の「そんな出来事」達が遂には花を咲かせ日常的にインターネットやテレビで流される天才特有の伝説や逸話に成るだから。

「お兄さん!もいつも私と同じボトルの、焼酎、呑んでるのね」

ヴァルールの大将のワッさんと、ウェブで読んだだけの美味しそうな料理の作り方や、互いの近況についてといった話をしていたのに。
俺の座っている席から1つ空けた右隣の席にいたオッサンまでが俺達の話に混ざってきた。

オッサンとは知らない仲ではない。
顔馴染みではあるし、きっと俺よりもすこぶる古い常連だと勘付いていたから、煩わしいが決してぞんざいに扱いたくはなかった。

オッサンの目の前には大分県産の麦焼酎の昭㐂光の真紅で透明な5合瓶が、繊維の粗く目立つ厚手の黒い和紙で出来たラベルを俺の方に向けられた位置で立っている。

黒い和紙は手で破り千切った様な雲や霧みたいな形状

そして、そのラベルの真ん中に直径1cmほど空いた赤い穴と、オッサンの充血した両目が一緒になって俺を見つめている。

俺はその3つの赤目のどれをも見つめずにオッサンが両手で軽く触れている水割グラスあたりに目をやりながら応えた。

「美味しいですよね!」
「ああ、これね!これがまた焼酎に合うんだよ!」

ああ、なんて世の中は不可思議で、人は偶然にとらわれるんだ。

 

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綺麗じゃない花もあるのよ(#1)

〈家の中〉

時間は確か26時か27時くらいだったのだろうか。俺はションベンがしたくなってトイレへ行った。

エアコンのオートセンサーに室内温度の調整を任せるのが叶ってしまう此のほんの小さな家の中では、年がら年中を薄着で過ごしていても高価とはならない光熱費で足りる昨今の家電事情。
それでも流石にこの季節にシャワーバスと洗面台と便器が一体となった3点ユニットバスの中へと夜中に足を踏み入れれば、そこに溜まっていた冷気や乾燥がスーっと首元やら鼠蹊部にまず絡みついてくる。
そこから瞬く間に躰全体へ染み込んでもいくのが“絡みついてくるもの”の性質で、俺はこの絡みついてくるものに対してはいつも気を立てて用心をしている。
品のあるアイボリー色で覆われ、心地良く、日々の小さな安息のためにあって欲しいこの空間の中で急速に喰らいついてくる冷気と乾燥が残した歯痕から生え出す寒気による抱擁は、安息がもたらしうる救いの地とは真反対の方角へ俺を貶めようと冬の度ごとに繰り返すからだ。
本当は大便だけに限らず小便も便座に座って出した方が便器の淵々に飛び散る便沫の付着を減らせるという点で、手入れや掃除が楽となり好都合なのだが。
束縛にも似た寒気の抱擁は、その程度の清潔対策に俺が構うのなんて一切許さず、すぐに退散が出来る体勢を俺に強要し続ける。

ただ傍目には、便器の前に立つ俺が、物心ついてからの何十年もの間で何万回をも繰り返してきたタッション・スタイルで着水点を朦朧と見つめて不規則に響いてくぐもり鳴る音を目を閉じて聴いているだけに過ぎない。

かたや瞬き程の音も立てず密やかに夜を支配する閉塞的な3点ユニットバスの中の中規模な冬軍が、暖気を引き連れ何の礼も示さずに突如として領土へ侵入をしてきた上に小便で穢す等する仇敵へ、冷気の波で攻撃を浴びせ続けている糾合も聞こえない。

それからの明くる朝。朝とはいえ、もう時計は十一時を回った頃。

いつもの様に十時までには目を覚ましていた俺はインスタ・ツイッター・LINE・フェイブック・メールを全て一通りチェックだけしてから漸く布団から抜け出た。本日も予定はゼロだがタオルケットをかぶせただけの折畳式マットレスの薄クッション越しに伝わってくるフローリングの温度はまだ低く、寝転んだままでいると肩コリや頭痛でもしてきそうなチリつく悪寒がする。

玄関と接してある台所の電球を灯してから常温で放置している麦茶を飲んだ。そして煙草を一本吸って、それからまた麦茶を一口だけ飲んだ後でトイレへ行く。
そのトイレで俺の毎日のルーティーンを遮り、俺の楽観的嗜好充填型生活様式への依存の中でも不規則に胎動の脈を打つ自己批判ウィルスの澱と俺とを無理矢理に対峙させる物が、夜中には無かったはずなのに今はある。

それは、「探さないで下さい。」との一言だけが書かれた便器の蓋。

夜中の排尿の時には寒いわ眠いわの事態であったが故に、尿意を解消してしまうと手洗いもせず直ぐに寝床へ戻ったものだから、それがあったのか無かったのかは今となっては不確かだ。

「探さないで下さい。何をだよ。何なんだよこれ。」

苛つきながら便器に向けて囁いた俺だが、今回はこの苛つきの理由に対して自分で自分に腹を立たせて脳内発狂を始めてソファーへしな垂れてしまうのではなく、実家から持って来たままだった薄緑で小さな花柄が散りばめられ柔らかな肌ざわりのカバーを便器の蓋に取り付けて家を出た。

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