〈店〉
この店の由来は大将のパクリ行為だ。
料理、酒類、内装(調理場とカウンターは除く)は全てパクリで、「このタブレットが俺の脳みそばい」と言って憚らないワッさんは、目にした人気のアイデアを即座に取り入れる屈託の無さが拘りだ。
「高校を卒業してから調理師専門学校へ通って調理師免許を取るまでは普通に暮らした」らしく、「そこからは務める店どころか仕事自体をコロコロ変えながら暮らした20代と30代さ」らしい。
「40代は甥っ子くらいの歳のやつらに混ざって鞄1つで世界を旅して回ったもんだ」と言うあたりで、ワッさんの語る半生にも真偽の怪しさが漂い出し、「50代でこんなもん」には返す言葉が見つからない。
とは言え、親の脛をかじって生き延びながら小説を書いている過ぎサーの俺の人生をこのまま淀みなく流していければ、無事に下流中年にゴールインなのだから、ワッさんの方がよっぽど従社会的だ。
ワッさんと向き合って呑めるカウンターの居心地が良い理由は、俺の中の淀みを溜め込みたくなる自制心とこの店とがマッチしているからなのかもしれない。
半年に一度くらい「レシピ泥棒だからヴァルールと名付けたはずの店なのによ、よくよく見たらヴォルールと書かれた看板が取り付けられてたYO!」と炸裂するワッさんの酩酊とお釣り銭と領収書を受け取って店を出たが、もう朝まで路面電車は走っていない。
アパートまでの帰り道は4キロくらいか。結局いつも小1時間は掛け、歩いて家へ帰る。
自分のことながら酒の酔いのせいで翌日には忘れそうになるのが常なのだけど、俺はミドルクラスの変態で歩きマニアだから足の裏を鏡で見る様な新鮮な出来事を求めて出歩いているのだと、こんな時に思い出してしまうもので、いつも泣きそうになる。
今日みたいに蒸し蒸しした空気の夜でも、靴下のつま先まで凍える夜でも、春でも秋でも何故だか年がら年中で同じ事になる。
酔い冷ましの歩きしな、時刻は26時にまで近づき、場所は帰路の残りが750mを切った辺り。
とうとうションベンの我慢が利かなくなってきている俺はとても広い本屋の店内へと入る。
こんな時間でも本棚を照らす明かりを煌々と灯して客を招き入れ、トイレも広く綺麗であるのとは別の楽しみがあって俺はこの本屋での用足しをいつも選択する。
ここの営業時間はティータイムの時間帯から朝方までで、書店フロアの営業だけではなく、奥にはカフェバー・スペースもある。このカフェバーこそが、かく言う俺の楽しみなのである。
カフェバーの店内には、奥行が20cmで浅く薄手なアルミ製の天板が突き出たキッチンカウンターと、高さも素材も不揃いなカウンターチェアー4脚が「掃き掃除をするために移動してある」風に点々と立ててある。
本屋の外の道側から見た人達にはとても小さな暗がりで、書店フロア側にいる人達からすれば本の森の端の神妙な祠で、いずれにしろ人の気配を感ない。
そんなカフェバーへひとたび足を踏み入れてしまえば「もう2度と出ては来れない」だが「もう2度と出ては来れなくて構わない」と達観をさせてくれる佇まいに畏れる人達しかいないのではないかと俺は想像する。
なぜなら。
本屋の入り口は表通りに面した大きな自動ドアが1つのみなのだけれど、カフェバーには表に面した外側と書店フロア側のどちらにもドロップ型で真っ青な取っ手の付いた扉があって。ただこれら2つの扉が、白色の本屋全体から視覚的にカフェバーを切り抜く外装の濃い茶色をした木製の壁と素材が全く同じで、真っ青なドアノブを引いてみないとカフェバーの扉のサイズが分からないデザインだからだ。
今夜、俺はこの本屋で正子と出逢うこととなるのだが、正子と俺との関係の絶対値はドアノブなのか扉なのか、恋なのか、プランターで咲くアサガオなのか。