初めの前のギリを刺す【2】

レジ番の場所に立つミサミは厨房の中にある閉じた折畳式椅子に垂らし掛けられた店主の白いエプロンから床ギリギリの位置にまで伸びた2本の紐を見つめる。

「もし今、あの紐を下に引っ張りでもしたら、紐を掴む私のその拳は床を打ち据え、挙句には大地を突き破ることになるわ。」

なぜなら、自分のギンガムチェックのエプロンの大きな前ポケットへ常に入れてある小銭を揉みしだく指に自ずと力が入るのが分かるからだ。

「よそ見してんじゃねえよ!」

「黙れ。ビビってんじゃねぇぞ、コラ。」

ミサミは厨房の方に体ごと視線を向けたまま寂しん坊な小男の無駄口に応じる。

「は?」

「あ?」

「俺がお前なんかにビビる訳ねえだろが!」

「じゃあ話しかけないでみてもらってもいいかしら。」

「すかしてんなあ。調子こいてんじゃねえぞ!ミサ!」

「その名前で呼ぶな」

「おい、聞いてんのかよ、ミサ!お前こそビビってんか?」

「その名前で呼ぶな」

「は?聞こえねえよ!」

「お前の声、デカ過ぎる。」

「そうなんだよ。コンビニでメビウスの7ミリくれって言ったら、そんなのありません、だって。シッシッシッシ(笑)」

話す時の十分の一の笑い声で目を瞑って肩を揺らす小男。

「だからさ、7ミリって分かる?セブンだよ、セブン!、って教えてやった訳。そしたらちゃんと出てくる訳よ。シッシッシッシ(笑)」

「良かったじゃん。」

ミサミにとってはタバコの種類に拘ることも話し声がうるさいことも良くはないが、あのことよりは死ぬほどマシだからそう言った。

「あ?やっぱセブンスターはサイコーだよなあ!な?あ?だろ?ミサもそうだろ?あ?」

「その名前で呼ぶな」

「シッシッシッシ(笑)」

「ほんとお前って幸せそうだなあ。」

「あ?そう?」

「そうよ。」

「ミサってマジでサイコーな!」

「その名前で呼ぶな」

「シッシッシッシ(笑)シッシッシッシ(笑)」

「帰れよ。」

「シッシッシッシ(笑)」

路地の向こう端の大通りからスーパーカブのライトがミサミの方に曲がって真っ直ぐに入ってくる。
そのライトの明かりがミサミの黒眼に猛然と差し込んで来ても眩しく無くて平気なのは、今日が曇りでも雨でもない良い天気で、時間がまだ夕方よりもずっと前だからだろう。

「もう帰れよ。」

「お?客か?」

「話、終わったんだろ?」

「まだ終わってはねえんだけどな。色々あんだよ、今回は。」

「でも。もう店主もそろそろかもしんないし。」

「今日はこんだけな。」

小男はいつもの様にポケットから全ての小銭を取り出して机に置いて席を立つ。

「お前だって、もうそろそろなんじゃねえのか?な、ミサちゃん!」

結局、小男はミサミとずっと目を合わせることの無いままに店を出て路地を抜け、小股でせかせかと歩き大通りを目指す。

ミサミは小男が大通りに消えて行ってからテーブルの上で一本に積み上がっている小銭のタワーを横から一気にかっさらい叫んだ。

「私はミサミだ!」

それからミサミは小銭を自分のエプロンのポケットへしまいながら店の中を見渡すが、さっきの餌やりの時間から他の客が増えた様子は無いし、追加のオーダーも来なそうだ。
そして窓際の水槽を見てもミサミの居る所からは生い茂る水草と立ち昇る気泡しか見えなくなってしまっている。
それを確認すると、ミサミはおもむろに店前の掃き掃除を始めるのだった。
だが、夜に閉店業務までやることになった日には水槽のガラス面に顔を近づけては眠りに就くカラフルなダンサー達に向けて必ずこう話しかけてしまう。

「古びない時計だってあるんだね。」

 

第3話へ続く

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