ヨシハチは変声期<9>

「切取町に新しく塾が出来るらしいよ。」

この情報はパピルニーの囚人達からだけではなく外の世界の大人達伝手にも届いて来た。

「塾」と言えば、もっぱら我々パピルニーの囚人達にとってはとっても貴重な居場所。

塾に居る間の時の俺達は監獄と娑婆との狭間の位置に立たせてもらっている仮釈放者に成れるのである。

また、俺達は、徳を積み上げる為の特別で正当な修行を積むことから悟りを開かんとする位の低い僧でもある訳だ。

とは言うものの俺の父母の話題にずっと上ったことのなかったのが、このありふれているはずな「塾」という単語であった。
だから俺は今まで塾に通ったことも訪れたことすらも勿論ないのだ。
そんな俺にとって、塾は空想上のものであり「期待の地」となっていて、殊更に神殿の如く煌びやかで厳かな存在感を基調とした救済の象徴なのである。

そう言えば、父母と一緒にいる時の俺は家族3人で何の話をしてきだろうか?実は其の殆どを俺の脳は覚えられていない。

パピルニーでの会話はというと、夏の砂浜で灼熱の太陽光を浴びながら遊ぶ子供達が不規則に跳ね回る様子に似ているのだが、その場の雰囲気の表面から沈み落ちない言葉を選んでは、それらを一個一個浮かべて漂わせていくのが父母との間のそれだ。
だからと言って父母との会話が恐る恐る慎重にしなければならない代物となっているのではないが、表面張力程度の緊張感の存在が固い基礎になって建っている対話の塔な気がする。これは父母も同じ感覚なのだろうか?

議事を進めるべき問題意識は持ち込まず、原理原則という世の核心を目指す必要は初めから無く、アメンボウの話もしない。

それでも父は時折で玉虫やゲンゴロウ、オニヤンマなどの話を自分の幼少期の思い出話に織り交ぜて楽しそうにしてくれたのだが、俺の周りでは残念ながら玉虫・ゲンゴロウ・オニヤンマ達は幻想や画面の中で見るしか出来ないだけの存在となってしまっている。
そして、採集癖がある訳ではないし、俺にとって虫はおもちゃでもない。

母は父とはまた違っている。
まず第1に言葉の量が父よりも母の方が格段に多い。
父は酒や自分に酔った時にだけ口数が急激に増えるのだが、これは垂れ流されている動画と同じ扱いしかし得ない類いの、非現実的な手で触れてはいけない挙動だ。

ただ、母が口にする話も、現実の場のという表層の奥には、幾重にも意識の層が折り重なっている、と俺に感じさせてくる心象があって、父による酔いからの戯言との優劣については差をつけ難いと俺は感じている。
そして感情、印象、情緒の増縮、脈絡の無さが貫かれていて、興味や衝動で取捨選択される言葉の連なりでなく毛穴という毛穴から迸る臭い物を拭わずコロコロと表情を変えては言葉を発する母も、俺にとっては赤の他人と等しい生物だと捉え直してから向き合うべき相手となる。

いずれにしろ俺は父母との対話の内容をよくは覚えておらず、よっぽどそんな彼らの口からは聞く機会のない単語の方が記憶域に鎮座しがちであるが故に覚えてしまっていたりもする。
「新商品」「BBQ」「セックス」「戦争」「1DAYパス」などなど、「塾」の他にも我が家では聞かれない単語が幾つもあることをパピルニーで知ることとなった。
こういった君谷家にとっての外来単語達は父母ら自身から欠け落ちた破片とでも言えるのだろうか?パピルニーで聞き増えていく単語の行く先が知れずに怖く、忘れても良いものか保管しておくべきなのかを判断しかねて迷いに陥る現象も怖くある。

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