「そんなことであるものか。」
後ろを振り向き、換気のために開け放たれたままになっている窓の先に広がった黄金色の夕陽を目掛け、俺はタイル貼りの薄く湿った床の上を駆け抜ける。
もう今の俺にとっては此のサッシを乗り越えるのが難しいはずはない。
単なる窓枠でしかない物体が狭まっていくという幻覚の代物であるパピルニー特有の此の結界を、全身で突き破り着地した所が胎内であって欲しい。
胎内に着地してから思い返してみれば、パピルニーの中の全てがもう既に完結済であったとの証明も出来る。
そうなれば母の子宮の伸縮に揺られているだけで誰にも邪魔されず、悲しまれもせず、死刑執行の日を迎え入れる前に、追われない仕方での「脱パピルニー」も叶うんだ。
だから俺は、着地が成功する夢想と黄金色の光に包まれて守られながらタイル貼りの薄く湿ったトイレの床の上を窓へ向けて駆け続ける。
だがその内に、背中のランドセルと左肩のトートバッグが、女郎蜘蛛から噴射された鎖に変異し、俺の全身へと恐怖を張り巡らせ、前後左右上下の判別を麻痺させてくる。
女郎蜘蛛から逃げるという決意では、走る動きをこのまま続けられても、全方位360度の位置関係と重力すらも張り裂けては飛び散り、俺はまんまと鎖の網に四肢をからみとられてしまい、パピルニー側の思う壺にはまる。
走り続けた末に、「俺には何かが足りないんだ。」と悔いながらも、両手を前に突き出して窓枠のレールに両足で乗り上げ、兎跳びの要領で両膝を伸ばして弾いた体が飛び出した時にも、まだ俺は変化した訳では無くて、何かが足りないままだった。
窓の外はやっぱり広くて、涼やかな向かい風が小さな小さな幾千もの紙飛行機群の様に俺そのものを摩りながら通り過ぎて行く。それと同時に背中のランドセルと左肩のトートバッグは女郎蜘蛛の鎖の変異が解け、次には其の重量が、宙に浮いた俺の上半身を時計回りに回転させた。
もちろん、着地なんて上手く出来たはずがない。
ランドセルはことの外に大きく潰れる音を立てて俺の左の頬をぶった。
トートバッグは手が届く距離にあってしんとしている。
「俺はまず何からするのが良いのだろう。」そう思いながら、今は俺もしんとしてしまう。
まずは、「きみたによしはち。」と、自分で自分の名前を口から発してみたところ、ランドセルがぶってきた衝撃で下唇が切れてしまっていて、イッ!とした痛みが顔面に走ったが、不思議と俺自身と俺が身につけている物達とが一体化している様に感じる。
その感じは、毛布に包まれている心地良さと同じで、俺はまだ身動きをしたくない。
「たかし。ごめんね、たかし。」
タカシはやはり優しい。
こんな俺なのに、いつも優しく話し掛けてくれる。
こんな俺はいつも口下手で、パピルニーに怯えていて、虫が大好きで、タカシのこともきっと好きなのに。
なのに、優しいタカシにまで苛ついた素振りをしたりするのも、実はパピルニーに囚われているばかりの自分を許したくはないから。
更には、同じ環境下の同類な人間のはずなのに、異世界から俺の目の前に度々現れる別の生命体なたかしが羨ましくもあり、分かり合えなくて悲しくもあり、俺は寂しくて孤独で。
それで、俺はたかしに謝りたくなるんだ。
だが謝りの言葉よりも先んじて渾々と湧き出していくのが、涙。涙は俺を下唇の裂けた箇所の表面を生暖かく覆ってきて濡らしては流れ、見る間にマントルのごとく赫く溜まった先の左の耳たぶが痒くなる。
そこを右手手の甲で拭おうとするが、その勢いで地面を殴ってしまった。
「ごめん。ごめん。ごめん。ごめんね、ごめん。」
今ここで謝罪を何層にも高く積み上げていったところでタカシには届きやしない。
ましてや俺だけに聞こえる言葉なんて。
ごめん以外にも一切が不要なはずなのに、真の愚行を繰り返すことの容易さたるや、極めて始末が悪い。
とは言え結局、俺はパピルニーの外ともこういう真の愚行では繋がっているのだろう。
だが、その繋がりは「脱パピルニー」への道筋とは繋がっていない気もするし。